ふるさと人物誌3  堀川の恩人 「古賀 百工」(こが ひゃっこう)


ふるさと人物誌ロゴ ◆堀川の恩人 古賀百工 三連水車
 「猿どん」と呼ばれ、堀川の恩人と慕われた庄屋がいました。その人、下大庭村庄屋古賀百工の知恵と努力の生き方とは。



●筑後川の水が欲しい

 まず、百工が生まれる前の筑後川と堀川の話をしましょう。今でこそ穀倉地帯と言われる朝倉も江戸時代の初めの頃は、小さな川の周辺に広がる水田や、溜め池から水を引く田が散在する程度で、松原や荒地が目立っていました。また、日照りが続くとわずかな稲も立ち枯れてしまい、作物も取れず、さらにはいなごなどの害虫にも襲われ、何度も飢饉(作物がとれず、飢えに苦しむこと)におちいりました。
 人々は筑後川の豊富な水量を見て「なんとかして、これだけの水を荒地に引き込めないだろうか」と嘆きました。
 堀川(人工の水路)が始めてできたのは、寛文3年(1663年)のことです。この年も長い間雨が降らず、草まで枯れはてる大旱魃(日照りで作物が枯れること)に見舞われました。
 福岡藩はこの災害をきっかけに、堀川を作り、筑後川の水を導入して、水田を開発する工事を計画、翌年春には完成しました。恵蘇八幡宮前の筑後川に、小さな堰(井堰とも言い、川の流れをふさぎとめるところ)を築き、樋(水を送る仕掛)を通して堀川に注がれた水は、古毛村から下座郡城力村まで九か村を流れ、150ヘクタールの田を潤しました。
 堀川着工は、百工誕生の56年前のことです。

●切貫水門

 さて、百工という名は晩年名乗りました。正しくは古賀十作義重と言い、享保3年下大庭村の庄屋の家に生まれました。
 堀川ができて60年目の享保7年、堀川の取水口を変更することになりました。その訳は、取水口に土砂が積もり、堀川への水の流れ込みが少なくなり、せっかく開発した田も、また旱魃の被害を受けるようになったからです。今回の計画は、元の取水口より少し上流にある、筑後川に面した岩盤をトンネル状にくり抜き、堀川とつなごうとするもので、切貫水門と呼ばれ、難しい工事が予測されました。また、山田堰も移転改修が必要になりました。
 百工の父重厚も、庄屋として工事に参加しましたが、安全な作業の日は、百工を連れて行くことがありました。幼い百工は工事を眺めるのが大好きで、指揮をとる役人や測量の様子を見ては、木切れや小石を積んで遊びました。切貫水門と山田堰は見事に完成し、堀川には豊かな水が流れるようになりました。

●百工の誓い

 やがて、百工も元服(男子が前髪を落とし、服装を改めること)の日を迎えました。儀式の後、父重厚は『朝倉紀聞』と呼ぶ書物を手渡し、「これは本家の庄屋古賀高重が著した物で、この地方のことがよく調べて記されている。高重叔父は中町の荒地を開墾し、小松を植林するなど、偉い庄屋だった」と教えました。
 百工は朝倉紀聞を何度も読み直し、誠実で学問を好み、人々の為に尽した高重の生き方に、あこがれを抱きました。
 そして、「農業を発展させ、多くの人を幸せにする庄屋になろう」と心に誓いました。

●百工の決心

 あの切貫水門工事から37年の歳月が過ぎ、その間新田も増加したので堀川の水量は不足し、下流の田には水があたらなくなりました。また、堀川が通っていない長渕・余名持・中村の各村はいつも旱魃に見舞われ、疲れきっていました。
 庄屋になった百工は、深刻な水不足の問題に日夜思いをめぐらし、ようやく結論に達しました。
 「筑後川から堀川に流れ込む水量をもっと豊富にしよう、また、堀川に分岐点を作り、新堀川をおこして、これまで堀川の恩恵を受けていない村々にも水を送るのだ。幾つもの工事をやることになるが、まず、現地の測量にかかろう」。

●苦心した測量

堀川の測量版画 堀川を改修し、新堀川を延長する工事には、水路と土地の高低を測量した図面が必要でした。百工は新堀川の位置を決めるため方々の木に登っては、方向を定めました。いつも木登りをしているので、「猿どん」と呼ばれるようになりました。
 土地の高低を測るには、村人の協力を得て、夜間高張提灯に燈をともし、二点間の高低差を求める作業を繰り返しました。また、細かな測量の場合は、水を盛った盥を水準器として使うなどの工夫を重ねました。こうした苦心の結果、新堀川の計画書ができ上がり、早速藩庁に提出されました。

●百工の業績

 百工と農民の願いは福岡藩に聞き届けられ、宝暦9年12月、取水口の切貫水門を広げる工事から始まりました。まず切貫水門の内径を今までの二倍に切り広げ、多量の水が流れ込むよう工夫しました。
 また、平行して、古毛村柴田橋から下流の堀川の川幅を広げ、堤防を高くする工事も行いました。
 翌年9月、山田堰の高さを上げ水量を確保する工事に着手、年を越えて完成しました。そして、百工の念願であった新堀川を開く工事は、5年の歳月をかけ、明和元年に完了、通水しました。具体的には、田中村北側を通過した堀川に分岐点(突分)を設け、ここから西南方向に新堀川が開通、日照り・旱魃に泣いた村々に、希望の光が点りました。これにより、堀川を水源とする水田面積は370ヘクタールに広がりました。
 菱野村付近の堀川に水車が架かった数年後の寛政2年(新堀川開通26年後)、山田堰大改修の藩命が百工に下りました。
 73歳の高齢ながら、百工は命をかけてやり遂げようと決意しました。
 それまでの山田堰は、筑後川の対岸まで伸びておらず、そのため堀川に流入する水量も不安定でした。百工は山田堰を川幅いっぱいに広げ、大量の水を堀川に送り込もうと計画したのです。大変な難工事でした。しかし、高齢を押して采配を振る百工のもと、工事に当たった農民は不可能を可能に変えていきました。
 こうして百工最後の大工事は完成しました。堀川は、一挙に487ヘクタールの農地を潤すようになりました。寛政10年(1798年)5月24日、信念を貫いた百工は 81歳の生涯を終えました。


▲堀川の概略図
菱野三連水車
●百工の努力で整備された堀川には、後に三連水車などがかけられ、さらに田畑を潤すことに
堀川地図

【史跡案内】
山田堰・堀川取水口=朝倉市山田、恵蘇八幡宮前
古賀百工の墓=朝倉市大庭三寺の上楽墓地

(広報あさくら平成18年10月1日号掲載)

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