ふるさと人物誌4  地下水で美田を拓いた 「橋本 郁太郎」(はしもと いくたろう)


ふるさと人物誌ロゴ ◆地下水で美田を拓いた 橋本郁太郎 橋本郁太郎
  橋本郁太郎(明治元年~昭和14年)は、立石の相窪に生まれ、25年間も立石村の村長として郷土の発展に尽した人です。
 中でも、世に先駆けて地下水を利用して美田を拓いたことは、その後の農家の暮らしを豊かにすることに大きな力がありました。
 郁太郎は、庄屋であった茂七郎、トマ子の長男としてすくすく育ちました。明治13年6月に県立甘木中学校が創設されると、早速入学しました。しかし、郁太郎が16歳の時に父を亡くし、18歳の時に母までも亡くしてしまいました。3年ばかりの短かい在学期間でしたが中学校をやめました。郁太郎は、3人の弟たちに「生活を豊かにするには、産業を盛んにすることだ。そのためには学問が大切になる」と、産業を興すことや勉強することの大切さを話しました。郁太郎は、暇を見付けては読書に励み、いろいろな知恵を身につけていきました。
 困ったことや分からないことがあるときは、叔父の利一や大叔父の藤右衛門にすぐ相談しました。二人は郁太郎の相談を受けると、「苦しくても、寂しくても負けるんじゃないぞ。兄弟仲良くがんばるんだぞ」と、仕事のことや弟たちのことなど親切に世話をしてくれました。


●米作りにはむかなかった相窪

その頃の相窪の土地は、米作りにあまり適しませんでした。佐田川の左岸にある相窪は川が山を削って造った扇状台地にあります。そのため土地は砂質で水がすぐ染み込んでしまうのです。わずかに湧き水が流れるそばや、長畑の落とし水が来る処に田んぼがあるくらいでした。それで相窪の田んぼは耕地面積の1割もありませんでした。明治36年に大干魃がありました。水が足りなくて撥釣瓶で水をやりましたが、到底焼け石に水で、かけるとすぐに乾いていきました。その年はとうとう1粒の米も取れませんでした。そんな年は、相窪の人たちは苦しい生活をしなければなりませんでした。サトウキビから取れた砂糖を売ってお金に換えたり、軍の仕事を引き受けてお金をもらって生活したりしました。相窪の人たちは、隣村の秋祭りの音をきくと、「自分たちも米の取れる田が欲しい。水さえあれば、自分たちも生活が豊かになるのにな」とつくづく思うのでした。水を確保して水田を広げることは相窪の大きな夢でした。

●仲間と取り組んだ水田開発

ある時、相窪で火事がありました。みんなは駆けつけ必死に水をかけました。そのうち手押しポンプが付きました。ガッチャン、ガッチャンと力一杯押すと水が勢いよく飛びました。しばらくして火が消えました。郁太郎は腰を下ろすと今汲み上げた井戸が目に入りました。郁太郎はじっと食い入るように井戸の中を見つめました。
「あれだけ、水を汲み上げたのに、この井戸の水は…そうだ、水はあるんだ」。
 郁太郎は、早速仲間達に呼びかけました「みんなこの土地を拓いて田んぼにしよう」。
 「田んぼにすると言うてん、水がないとでけんばい。水はどこにあるとな。それに、費用もえらいしこかかろうもん。そげな金はなかばい。それはどうするな」。
 「いや、水はある。水のことは俺が考えるけ、耕地を整理して田んぼにしようや」。
この前火事があった日のこと、井戸の水を汲んでも汲んでも涸れなかったこと、他の井戸の水もあったことなどを話しました。そして、新しい法律ができて国からお金が借りられるようになったことなど一つひとつていねいに説明しました。始めのうちは、みんなは本当にできるだろうかと半信半疑でした。しかし、苦しい生活から抜け出すため頑張ろうと熱心に語りかける郁太郎に、反対していた者の中からも賛成する者が出てきました。
 明治42年、仲間が集まり相窪耕地整理組合を作りました。仲間とともに委員に選ばれ、委員長には橋本郁太郎がなりました。県に耕地整理事業の申請を出しました。許可が下りるといよいよ工事を始めました。日々の仕事は大変でした。しかし、みんなには大きな夢がありました。田んぼを造って家族の者を幸せにしたい。みんなは力を合わせ励まし合って、来る日も来る日も働きました。努力の甲斐あって整地した柳原、輪ノ内方面の田んぼは約15ヘクタールにもなりました。

●水田を潤す地下水

 一方、郁太郎にはいつも頭から離れない大きな問題がありました。
 「確かにこの土地には豊富な地下水がある。さて、問題はこれをどうして田んぼへ汲み上げるかだ。うーん。なにか、いい手だてはないものか」。
 そんなとき、米国に渡って工学の勉強をしていた末の弟義夫のことが頭に浮かびました。義夫は、たまたま病気治療のため帰国していました。早速弟の義夫に相談しました。
 「米国には石油で動く発動機と言うものがあって、それを使って水を汲み上げていました。しかし、残念なことには、日本には石油発動機で水を汲み上げるポンプはまだありません。私が設計しますから、福岡の工場で機械を造ってもらってください」。
 それから、準備しなければならないことをメモにして渡しました。メモには、水源池を掘ること、機械を据える為に煉瓦を敷き詰めたしっかりした基礎を造ることが書かれていました。郁太郎は、義夫の手をぐっとにぎりしめました。
機械の製作を頼むと、郁太郎はたちは、明治43年7月相窪字前田に1アール程の水源池を堀りました。また、石油発動機やポンプを据える為の基礎に使う煉瓦を探しました。久留米の宮ノ陣に煉瓦を造る工場があることが分かりました。早速出かけて煉瓦を注文しましたが、宮ノ陣から相窪まで約30キロメートルもあります。今と違ってトラックもない頃のことです。しかし、若者達はよく協力して重い煉瓦を牛を引いて運んで来ました。
相窪石碑明治44年1月待ちに待った発動機とポンプが着きました。新しい赤い煉瓦の上に発動機とポンプが据え付けられました。いよいよ試運転です。6馬力の大型発動機を二人がかりで力一杯回しました。バスッ。爆発音と共に黒い煙がばっと吹き出しました。バキューン。バスッ。ドスッ。ドスッ。ドッ、ドッ、ドッ。音は遠くまで響いていきました。
 「やった。水が出たぞう。万歳。万歳。万歳」。
 みんな大喜びです。手を握りあって涙を流す者もいました。汲み上げた水は瞬く間に近くの田んぼを潤していきました。これまでの苦労も一度に吹っ飛びました。
 機械による揚水事業にかかった総工費は、当時の金で1375円39銭9厘(※)でした。この耕地整理以後、相窪で取れる作物は麦、粟から米に変わりましたので、それによって収入が毎年1200円もの増収になりました。石油発動機、ポンプによる地下水利用は、大成功を収めました。発動機も、ポンプ揚水も大変珍しかったのでたくさんの見物がありました。機械による揚水事業は、その後も改良が加えられ今日のようになりました。
 やがて、相窪は豊かな土地へと発展していきました。今青々と広がる相窪の田んぼには、郁太郎達の夢とそれを受け継いだ人々の魂が息づいています。

(※)明治42年当時は、米1俵(60kg)の値段が4~5円でした。

(広報あさくら平成18年10月1日号掲載)

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