ふるさと人物誌7  秋月藩中興の祖 「黒田 長舒」(くろだ ながのぶ)


ふるさと人物誌ロゴ ◆秋月藩中興の祖 黒田長舒
 秋月藩は、福岡藩の支藩で、元和9年(1623年)黒田長政の三男長興が福岡藩52万石から5万石を分知され、立藩しました。



●8代藩主長舒誕生

黒田家の系図 黒田長舒は、明和2年(1765年)日向高鍋藩7代藩主種茂の二男(幸三郎)として生まれましたが、天明5年(1785年)21歳のとき、秋月藩8代藩主として迎えられました。長舒は叔父の上杉鷹山をはじめ、先祖に上杉謙信・秋月種実・黒田如水・吉良上野介・妻方に山内一豊等多彩な血筋を持ち後に秋月藩中興の祖と讃えられました。時まさに徳川11代将軍家斉の治世、老中松平定信の寛政の改革、その後の文化・文政の江戸文化が花咲く前の頃でした。
 秋月藩は、天明4年(1784年)7代藩主黒田長堅が嗣子がないまま、18歳で若死にし、断絶の危機を迎えました。秋月藩のこの事態に、福岡藩は秋月藩廃絶を画策しましたが、家老渡辺典膳などの努力で藩取り潰しの危機は免れました。この時、長舒は、父の高鍋藩主秋月種茂の母(春姫)が秋月藩4代藩主黒田長貞の娘という黒田家・秋月家双方の血をひき、若い頃から文武に秀で、その資質を高く評価されていたので、まさに秋月藩が跡継ぎとして渇望した人物でした。
 藩主となった長舒は家老渡辺典膳などが建白した「国計大則」によって蓄えられた備蓄金を活用し、若さと英知を駆使してさまざまな業績を残していきました。

●長舒の善政

 長舒は、叔父上杉鷹山を畏敬し、鷹山を範として諸般の振興を図り、藩主として領民への慈しみの心を終生持ち続け、『経世済民』を実践しました。この頃、全国的に危機的な年貢の減少と農民の労働力が不足していたので、その増大を図るとともに人命尊重という人道上からも、長舒は子の間引きを禁止し、妊婦は庄屋に届けさせ、子育ての困難な家庭には養育米を与えました。更に領内を巡回し、領民に声をかけ、善行者を表彰し、80歳以上の人を招いて労をねぎらい、酒食をともにして贈物をしました。また、長舒は相撲を好み、力士を競わせたり、別荘で花火を揚げさせたり、八幡神社で歌舞伎芝居を催させたりして、人心を和ませました。領民への慈しみと高齢者へのいたわりの心を藩主自ら実践したのです。

●学問奨励と藩校稽古館

 安永4年(1775年)7代長堅のとき、後に稽古館と呼ばれ、藩校となる学問所が設けられました。長舒は、藩主となると本藩から徂來派の亀井南冥や京から山崎派の小川才次などを招き、学問を奨励しました。その後亀井南冥に学んだ原古処を稽古館訓導(後に教授となる)に任じました。向学心の旺盛な長舒は、自ら我が子を連れて講義を受け、更に家老や諸役人に至る家臣たちにも広く講読させました。また、兵学をはじめあらゆる武芸を奨励し、熟達の藩士に師範役を命じ、指導に当たらせました。
 こうして長舒は、稽古館を、実父高鍋藩主秋月種茂の明倫堂、叔父米沢藩主上杉鷹山の興譲館に比肩する藩校とならしめ多くの人材を育成しました。

●秋月の文化を彩る俊英たち

 長舒の治世の下、秋月文化の中心的存在として原古処・緒方春朔・斎藤秋圃などが輩出しました。原古処は、手塚家の二男として生まれましたが、生来の利発さと英才ぶりを儒学者原担斎に見込まれ、懇請されて原家の養子となり、家督を継ぐことになりました。その後、藩の諸奉行などを歴任し、長舒の信任を得て、稽古館の教授となり、秋月の文化・教育を大いに振興し、有為な人材を育成しました。また、長舒は原古処の意見を採り入れ、藩財政立直しとして、特に桑の栽培と養蚕を奨励していきました。
 長舒の学問の奨励は、医学の研究発展にも寄与しました。長舒は7代藩主長堅が痘瘡に罹り、18歳で早世したので、痘瘡を防ぐ方法を模索していました。その頃藩医の緒方春朔がこの難病と取り組み、中国の書籍の研究を続けていたので、長舒も協力し、遂にその免疫法が考案されました。春朔は、久留米の領民でしたが、医者を志し長崎で勉強に励んだ後、長舒によって秋月の藩医に迎えられ、種痘の研究に専念してイギリスのジェンナーより6年も早く免疫法を完成させたのです。成功の陰には、上秋月の大庄屋天野甚左衛門の多大なる協力があればこそでしたが、藩主、藩医、篤志家の心がひとつになっての偉大な功績と称賛されるべきでしょう。この種痘法の成功は、秋月藩のみならず全国の医学の進歩に寄与しました。
 更に秋月文化の担い手として、絵師斎藤秋圃がいます。秋圃は長舒に見い出され、秋月藩御抱え絵師となりました。秋圃は、長舒主催の太宰府書画展覧会に施龍図を出品するなど、筑前絵師の中心的存在で、特に秋月時代は狩野派風御用絵のほか写生的鹿の絵の名手として知られていました。島原の乱戦闘図屏風は、秋月郷土館に、また長生寺の秋葉堂には天井絵が今に残っています。

●殖産興業と秋月の特産品

 長舒は殖産興業として特産品の開発製造を奨励しました。まず秋月名産として名高い葛の製品化でした。葛湯や葛根湯として知られる葛は、昔から解熱や筋肉の弛緩の働きがあり、風邪、下痢、肩こりに重用されていました。廣久本葛は、歴代久助の努力によって秋月藩の将軍家献上物となり、江戸でも高い評価を得、秋月を代表する特産品として全国に広まりました。
 もうひとつは、川苔です。現在の黄金川に清泉が流れ込み、その流れの中に繁茂する青緑色の苔です。宝暦13年(1763年)秋月の町人遠藤幸左衛門がはじめて保護栽培を始めました。改良後献上された川苔は、長舒により寿苔と名づけられ、後に寿泉苔と改められました。藩は遠藤家に特許権を与え、筑前の特産品として奨励し、販売も大阪をはじめ異国へも輸出されました。
 長舒は他に、茶・桑・楮・櫨・木蝋・製紙・養蚕・びん付油などを産業として奨励し、藩財政の立直しと領民の生活を安定させていきました。

●悲願の目鏡橋完成

目鏡橋 長舒が行った今なお残る業績に、秋月街道に架かる目鏡橋があります。7代藩主長堅の急逝による8代藩主長舒擁立に際して、秋月藩はその代償として、福岡藩が幕府から任じられていた長崎警備役を代わりに務めなければならなくなりました。その頃、筑前秋月と筑後・豊前を結ぶ木の橋は、人馬の往来も激しく橋の損傷も著しく、大洪水時には瞬時に流されてしまいました。長崎に警備していた長舒は、長崎の石橋と同じものを野鳥川に是非架けたいと熱望しました。その頃は藩財政も厳しくなっていましたが、家臣や領民の要望が強まり、長舒はついに架橋建設を決断しました。ところが不幸にも竣工を目前にして橋は崩壊し、病床にあった長舒は、目鏡橋の完成を見ることなく、文化4年(1807年)43歳で逝去しました。
 しかし崩壊から3年後の文化7年(1810年)9代藩主長韶の時、悲願の目鏡橋が野鳥川に美しいアーチを描いてその姿を現しました。ただ、渡り初めのその時に、晴れやかな前藩主長舒の姿を見ることができなかったのは、家臣・領民の涙を誘うものでした。
 今でもこの目鏡橋を見るとき、秋月藩中興の祖と称賛される長舒の想いが伝わってくるようです。


【参考資料】
三浦末雄/物語 秋月史
古賀益城/あさくら物語
甘木市史
田代量美/秋月を往く

(広報あさくら平成19年4月1日号掲載)

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