ふるさと人物誌9  秋月藩の学問振興に尽くした 「原 古処」(はら こしょ)


ふるさと人物誌ロゴ ◆秋月藩の学問振興に尽くした 原 古処 原古処
 江戸時代に幕府は文治政治を掲げて武士の学問を奨励しました。この時代の学問は、人間の生き方や道徳を教える儒学が中心でしたが、朱子学、古学などの学派に分かれて議論や研究が深まり、林羅山、山鹿素行、荻生徂徠などの儒学者が現れました。福岡では、貝原益軒と亀井南冥が有名ですが、秋月の儒学者に原古処がいます。



●亀井南冥に入門

 原古処。名は震平叔☆(しんぺいよしあき☆は火へん華)、郷土の名峰からとって「古処」と号しました。明和4年(1767年)秋月藩士手塚甚兵衛辰詮の二男として生まれましたが、幼少より利発で勉学を好み将来を嘱望されていました。その優れた資質を請われて16歳のとき、原坦斎の養子となりました。原家は学問師範を家業とする家柄で、坦斎は藩校稽古館の教授の職にありました。原家に入った古処は18歳のとき藩命によって福岡の儒学者亀井南冥の甘棠館に入門しますが、すぐに頭角を現して亀井門下四天王の一人と称賛されるようになりました。師南冥が門弟古処の優秀な学才を慈しんで教育した心境が、現存する南冥の書簡からも読み取れます。

●藩校稽古館での教育

 原古処が20歳になった天明6年(1786年)、養父の原坦斎が病気で稽古館教授を退役したとき、彼は福岡から呼び戻されて稽古館の訓導を命じられました。
 秋月藩の稽古館は、藩士子弟の学問所として安永4年(1775年)に創立されましたが、天明4年(1784年)高鍋藩秋月家から養子に入り8代藩主を襲封した黒田長舒のお国入りに合わせて大改築が施され、広い講義室と剣・槍・弓などの武道場を備えた立派な学問所で田舎の小藩には過ぎたる学校との評判でした。長舒は御満悦で、実家高鍋藩の明倫堂や叔父(上杉鷹山)米沢藩の興譲館に負けない学問所をめざして充実を図りました。京都から著名な学者小川晋斎を教授に迎えるとともに、亀井南冥を福岡から招聘して講義を聞かせるなどして、藩士の学問を奨励しました。藩主自らが稽古館に臨席して講義の様子を見分し、学生を激励することも度々でした。藩主の積極的な保護をうけて、稽古館は盛況になり入門生は150人を超えるようになりました。
 原古処は、やがて訓導から助教へと昇任して、学生に講義したり質問に答えたりするようになりますが、彼の指導は懇切丁寧でありその理論は明快でした。単に教科書(漢籍)の観念的な教義の解説にとどまらず、実生活や政治・産業の啓発に役立つ実践的な教えであったのでたいへん好評でした。学生のみならず藩内一統の古処に対する信望は厚くなり、藩主長舒の信任は絶大になりました。
 寛政8年(1796年)小川晋斎が京都に帰った後は古処が教授に抜擢されて稽古館教育の中心になりました。それから、稽古館はますます隆盛になり、彼の教えを受けた若者たちは、やがて藩の政治や経済を支えるようになっていきました。

●私塾「古処山堂」を開設

古処山堂あと 原古処の名声が揚がるにつれて、彼の教えを希望する人が藩の外にも増えていきました。古処は、藩主の許しを得て、秋月城下の今小路に屋敷地を拝領して私塾「古処山堂」を開きました。早速、たくさんの門弟が九州各地から遠くは中国地方からも入門してきて活況を呈しました。豊前行橋の村上仏山も門弟の一人です。文化4年(1807年)には、藩主長舒が二人の子息を連れて、古処の屋敷を訪問し古処山堂を見分しました。藩の重役でもない無足組平士の家を藩主が訪問することは前例にないことで、古処にとっては非常な名誉であり、また長舒の寵愛の深さがよく分かります。長舒の死後、9代藩主となった長韶もまた、原古処を信頼して重用しました。古処の家格を馬廻組(蔵米100石支給)に引き上げ、稽古館教授と兼帯で、藩主の側近にあって諸事の世話や指南をする御納戸頭の要職に登用しました。このことは皆が驚く破格の昇進でした。御納戸頭就任によって、古処は藩主の参勤交代のお供をして江戸に上る機会を得ますが、江戸在府中や参勤の道すがら多くの学者や文化人に出会い、友人知己と交遊することができました。この頃が、原古処の生涯において最も充実した絶頂の時期であったと考えられます。

●「織部崩れ」の大事件

 文化8年(1811年)秋月藩において大事件が起こりました。これは「織部崩れ」といわれている事件ですが、家老の宮崎織部・渡辺帯刀とその一味の重臣たちが、若い藩主長韶を軽侮して藩政を専断し公金を私腹していたことが告発されて、家老や奉行などが罷免されました。この後秋月の藩政は混乱し財政は危機的状態に陥りました。稽古館は閉館となり古処は教授の職を解任されました。加えて、彼が宮崎織部と懇意であったことから、御納戸頭を罷免されて無役となりました。
 この事件の後、秋月藩の政治に本家福岡藩が介入するようになり、稽古館は再開されますが福岡から派遣された学者に牛耳られて古処の出番はありませんでした。

●漢詩と旅行を楽しむ

原古処の詩 失望した原古処は、文化10年(1813年)家督を長男瑛太郎に譲って隠居しました。47歳のときです。これからの古処は漢詩の世界に没入していきます。彼は、若い頃から詩作が得意で、恩師亀井南冥も古処の詩人としての才能を高く評価していましたが、自由の身になってから彼の卓越した漢詩の才能は花開きました。古処の遺した日記や紀行文によると、恩師南冥の形見の「東西南北人」印を携えて、九州や中国地方の旅を楽しみとしました。各地の文人墨客を歴訪し、酒を酌み交わし漢詩を朗詠して悠々の日々を過ごしています。豊後日田の広瀬淡窓や安芸広島の頼山陽とは特に親交が深く、相互に宛てた書簡が多く残っています。古処は巡遊の旅に娘の猷を同伴しています。猷はのちに閨秀詩人と評判される原采蘋のことですが、古処は娘の豊かな詩才を見抜き将来の大成を期待していたのです。また、甘木町に「天城詩社」を開き近郷の文化人を招いて詩作や学問論議を楽しみました。しかし、悠々自適の暮らしも長くは続かず、晩年は病気がちになり、文政10年(1827年)1月に病没、享年61歳でした。墓は秋月の西念寺にありますが、墓石正面の字は頼山陽の書、側面には広瀬淡窓が贈った追悼の詩が刻まれています。
 原古処はたくさんの漢詩を作りました。これらの作品は「古処山堂詩集」などにまとめられて秋月郷土館に保存されていますが、どの詩からも古処の豊かな学識と独自の歴史観や高邁な思想が汲みとれます。

【参考資料】
古賀益城編/あさくら物語
山田鉄崖著/原古処・白圭・采蘋小伝及詩抄
三浦末雄著/物語 秋月史

(広報あさくら平成19年7月1日号掲載)

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