ふるさと人物誌12 児童文学作家 「豊島 与志雄」(とよしま よしお)


ふるさと人物誌ロゴ ◆児童文学作家   豊島 与志雄 豊島与志雄
 豊島与志雄は、明治23年(1890年)11月27日、福田の小隈に父秀太郎・母ヨネの一人息子として生まれました。
 三千坪程の広々とした敷地をもつ家に育ち、福田小学校を終えたあとは甘木の高等小学校へ進学、14歳になってからは福岡にある母の実家に寄留して西新にある中学・修猷館に通います。最高の学業成績をおさめ、5年後の卒業式では代表して答辞を読んでいます。
 その後、上京して第一高等学校に学び、明治45年(1912年)には当時の東京帝国大学に入学、フランス文学を中心とした学問の道を歩むのですが、高等学校在学中から既に「小説」「詩」などを手がけては諸文学雑誌に投稿していました。



●翻訳家・作家として

 やがて、大正4年(1915年)に大学を卒業した与志雄は、殆どを東京で過ごす中、彼独特の作風で次々と新作を発表、多くの読者の共感を呼び、文壇でも次第に頭角を現わす存在となっていきます。
 中でもフランス文学の翻訳家としての力量には素晴らしいものがあり、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」ロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」という二大長編の訳本は当時大いに人気を博したものでした。
 与志雄は、元来孤独を愛し、自然に親しむ心情の持ち主でした。それに家庭的に苦労も多かったようで、そうした生きざまをもとにした作品が多かったことも確かです。
 一方文壇には、かの有名な夏目漱石・山本有三・菊池寛・太宰治・芥川龍之介などもいて与志雄も親交を重ねていたようです。そうした同人たちの彼の作品に対する評では、『色彩感あふれる夢想と散策を好んだ文章なり詩が多くて、散文詩風の中に豊富な技巧が生かされていたり、また真剣な彼自身の煩悶を孕んだ部分が多い』と指摘されています。
 与志雄に関しての「著作目録」を見てみると、40歳で妻を無くしたあと、残された幼ない子ども3人のために、せっせと幾つもの童話を作っていた時期がありました。夏は夜の11時から朝の4時頃まで、冬だと夜の9時から朝の2時頃まで、旺盛な創作力と自己の周辺に求めた素材を元にして執筆に頑張ったものです。「お山の爺さん」「天下一の馬」「キンショキショキ」「天狗笑」などの魅力ある童話作品を数多く世に出したのもこうした時期でした。

●豊島作品の原点

与志雄の生家 ところで、こうした与志雄の数多くの作品を見たときに、どの作品にも感じる一つの共通点があることに気付くのです。それは何かといえば、幼児期に受けた郷土の雰囲気とか祖母から受けた感化です。
 つまり幼い頃祖母から聞かされてきたいろいろな昔話や伝説が、後になって彼の人生をほぼ決定づけたといえるのではないでしょうか。その証拠に後年の彼の回想に次のような一節があります。
 「私の祖母は、いろいろな話を沢山知っておりました。たいてい昔話のたぐいで、中に出て来るものは、人間をはじめ、鳥や獣や虫や魚などさまざまでした。それらの話を、祖母はしばしば話してくれました。それを聞くのが、私には何よりの楽しみでした。それらの話を思い出すと、今でも心温まる感じがします」と。また昭和8年の「書かれざる作品」の中の「夢」というエッセーにも、「幼時、正月のいろいろな事柄のうちで、最も楽しいのは、初夢を待つ気持ちだった。伝説、慣例、各種の年中行事、そういったものに深くなじんでいた祖母が、初夢によってその年の運勢が占われることを私に教えてくれた。二日の朝、或いは三日の朝には、昨晩の夢はどうだったかと、祖母は必ず私に尋ねかける。その顔はいつも晴れやかで、にこにこしている。そして私が見た夢の解釈が、必ず吉であることは言うまでもない。しかしその解釈は私にはどうでもよいことだった。ただ、そういう運勢的な解釈が加えられるために、夢は一層魅力を増して、それを待望する気持ちが煽られるのである。初夢は一年の最初の夢であるばかりでなく、何かしら、未知の世界、神秘の世界、広く深い運命の世界を、ちらと覗き込める隙間のようなものだった」と。
 また、大正8年4月、29歳の頃「文章世界」に寄稿した「楠の話」の中にも与志雄の生まれ育った当時の屋敷の印象が描かれています。
 「その頃私の家は田舎の広い屋敷にあった。屋敷の中には、竹籔があり池があり墓地があり木立があり広い庭があり、またちょっとした野菜畑もあった。私は子ども時代に屋敷から殆ど一歩も踏み出さないで面白く遊び回ることが出来た。そして私の幼い心の最大の誇りは、屋敷の隅にある大きい楠だった。楠と並んで周囲一丈ばかりの樫が一本あった。それからまた椋の古木が一本あった。その三本の大木の根が絡まった狭い地面は、平地より四五尺高くなって、その中央に落ち葉の中に熊笹の生えてる真中に、石造りの小さな稲荷堂が一つあった」と淡々と述べていますが、そこには幼い頃の自分と庭に生存する自然との親しげな雰囲気が映し出されていることに気付くのです。
 そして、それとともに純真無垢で感受性の盛んな幼児期の、これにたっぷりと祖母から聞かされた夢のような話とが重なり合いながら、与志雄をしてむらむらとした創作意欲を醸成させたに違いないと思います。

●苦難の時代と晩年の名声

生家の庭に建つ記念碑 ところが このように優れた多くの作品を世に発表した派手さの裏には、甘木小隈の実家没落による償いとか日々の苦しい生計を補った時期があり、昭和24年頃(58歳)までの終戦前後の35年間というものは、執筆の外に教師として一度に幾つもの学校をかけ持つという貧困苦労の時代でした。
 つまり給料と原稿料収入の二本立てでないと過ごせない生活があったといえます。
 そうした苦難の後、晩年には、著述活動の他に日本ペンクラブや日中友好協会のメンバーとして人一倍カを注いできたことも見逃せません。
 このようにして過ごしてきた与志雄に対して、昭和24年にはそれまでの功績が認められ、名誉ある日本芸術院会員の一人に推されました。
 しかしながら残念なことに、その彼も無理を重ねてきたせいからでしょうか、いつのまにか健康を損ない、病に臥して昭和30年6月18日、遂にこの世を去ったのです。時に65歳でした。
 なお、豊島与志雄の追悼と生前の功績を後世に伝えるために、平成17年の「没五十周年記念祭」以降、地元では毎年一回(九月中旬)生家跡地の記念碑前で地区振興会主催による「顕彰会」を開いています。
 内容としては、小学校高学年参加による「童話作品朗読会」や、研究同人による「与志雄を語る」講演会などがあります。


【参考資料】
関口安義著/評伝 豊島与志雄

(広報あさくら平成19年10月1日号掲載)

 

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