ふるさと人物誌14 『あさくら物語』を著した 「古賀 益城」 (こが ますき)


ふるさと人物誌ロゴ ◆『あさくら物語』を著した  古賀 益城 古賀益城
 郷土朝倉の歴史を調べるとき、無くてはならない名著があります。「あさくら物語」「あさくら物語別冊」「朝倉風土記」の3冊です(合計約1700ページ)。今回は、その著者古賀益城の生き方と学問について紹介します。



●生い立ち

 益城の名はペンネームで、明治20年12月26日、福岡県竹野郡船越村(現在の久留米市田主丸町)村山左衛太の第7子として生まれ、村山増吉と名づけられました(この年、初めて東京に電気燈が点りました)。間もなく大分県玖珠郡万年村に移住、幼年期をこの地で過ごし、再び船越村に戻ります。成長して浮羽郡教員養成所に学び、同郡千歳小学校教員(訓導)として初めて教壇に立ちました。ここに2年勤務し、青雲の思いやみ難く、福岡師範学校(福岡市)に進み、明治41年3月同校を卒業しました(この年、朝倉軌道二日市~甘木間が開通しました)。

●青年教師の理想

 福岡師範学校卒業後の赴任校は嘉穂郡穂波小学校でした。この炭鉱地帯の小学校では、教え子たちに「自ら進みて自分の機会をとらえよ」と諭し、児童一人ひとりの自発性を高める教育を目指しました。この頃の授業の様子を「あれは愛の教育だった」と教え子たちは述懐しています。次に赴任した小倉師範付属小学校では、個性尊重の教育と綴り方教育の革新を目標としました。この2校での実績は明治40年代のすぐれた教育方法として教育史上高い評価を受けています。
 明治45年5月、朝倉郡宮野村烏集院(現在の朝倉市烏集院)の旧家古賀家の婿養子となり、評判の良い女教師古賀フミと結婚して、同家を継ぐことになりました。

●チームワークの成果

 大正6年、30歳の若さで中牟田小学校校長に任命されました。この頃から「益城」の筆名を用い始めました。その後、抜てきされ迎えられた大牟田市第二小学校で体験主義による大牟田独自の教育を試み、昭和2年、朝倉郡に戻って三輪小学校と次の三奈木小学校で郷土教育を提唱、校長が教師たちと共に調査研究を行うことで大きな成果を上げています。
 両校の郷土教育では、歴史は伝説や由来よりも文献や遺跡を重視し、地理や産業は実態調査を重点としました。また、朝倉郡内の教員同好者と共に朝倉郷土研究会を結成して、研究機関紙「朝倉」(9集)を発行しました。このような郷土調査の経験が、後に益城を郷土史研究に向かわせたと思われます。
 40代は最も教育研究意欲の旺盛な時期でした。「教育聖典と語録」「教育淵源録」「日進朗誦集」等著作が相次いで発行され、特に「教育聖典と語録」は好評で発行部数も多く、戦前教師の座右の書となりました。益城は太平洋戦争が始まった翌年、昭和17年に退職しました。教育に従事すること34年、後日家族に「校長に早くなりすぎたよ。もっと子ども達と遊びたかった」と、洩らしたそうです(この年4月に、米軍機が本土を初空襲しました)。

●苦しかった戦中戦後

 退職後の悠々自適は誰もが望むところですが、時代はそれを許しませんでした。益城も戦時国策団体の仕事をいくつも委嘱され、働きづめの生活を送りました。
 戦後しばらくは、自家農業の傍ら、学童雑誌の取次ぎや生命保険代理人も経験、不得手な仕事ながらも家計を支えました。戦後の社会が落ち着き始めた昭和21年1月8日、自宅では養母キヨが81歳の生涯を終え、同日、浮羽郡の入院先では長男稔が33歳で亡くなりました。益城は「百年に一度の悲しみ」と嘆きました。稔は、京都大学卒業後東宝映画に入社、主に成瀬巳喜男監督に付き、助監督を務めました。将来を期待されながら、中国での兵役で病に罹り帰郷、療養中でした。益城は、悲しみを秘めて黙々と農作業に従事しました。

●新生公民館に尽力

 終戦の翌年、昭和21年7月、民主主義の普及推進のため、文部省は全国の町村に公民館の設置を要請しました。益城が住む宮野村では、翌年7月、他町村に先駆けて「公民館設置要項草案」を作成、早々に公民館設立準備委員会を開催し、公民館の創設を決定しています。この草案は、村長の委嘱を受け、主に益城が起草しました。その後、村長(公民館長)を助け、益城は副館長として公民館報「ひろには」を創刊し、本館・分館の活動を育成、教育文化事業の普及に努めました。特に、館報の記事は大半を益城が執筆し、シベリヤ抑留のため、宮野村最後の帰還兵となった青年には、懇切な慰労の記事を掲載するなど、益城らしい真情が溢れていました。その後、村議会議長になり、また公民館長も兼任しました。

あさくら物語・朝倉風土記●「あさくら物語」等完成

 公民館の運営が軌道に乗った昭和26年、64歳になった益城は生涯の大事業に取りかかりました。
 江戸時代朝倉地方115村の郷土誌を総合した「朝倉風土記」、郷土朝倉2千年の歴史を詳細にまとめた「あさくら物語」、郷土研究の骨格となる「朝倉郷土史年表」等、郷土誌3部作の執筆を開始、地方新聞「朝倉タイムス」(甘木)に連載すること13年に及びました。
 昭和38年、地元文化人緒方無元の好意によって、「あさくら物語」と朝倉郷土史年表に文献解説等を収録した「あさくら物語別冊」を刊行しました。続いて翌年、「朝倉風土記」が朝倉郡公民館連合会の協力で刊行の運びとなり、ここに郷土史3部作は完成を見ました。

●人柄、そして研究

 小柄なお姿でした。教師時代は制服制帽を厳格に着用しましたが、退職後はご隠居さん風で飾らず、温厚篤実な人柄は誰からも慕われました。
 少年の頃から、好奇心旺盛で、多くの書物に親しみました。文学を好み、宮崎湖処子の詩文も愛読また、剣道も励みました。
 若い教師時代の研究目標は、教育指導法であったようです。やがて、関心は文学や郷土史にも広がりました。新聞や図書雑誌の購読も並外れていました。益城の研究スタイルを逸話から拾えば、資料(図書・雑誌・新聞・学校資料)の収集→精読→要約・切抜き→分類→執筆→製本となります。帰宅するとすぐ書斎にこもり、夕食が終わるとまた書斎に戻りました。ここには幼児の絵雑誌「コドモノクニ」が並び、郷土玩具も飾られていたとのこと、お伽の国の雰囲気も漂っていたとは、幼き者への慈愛の深さでしょうか。

●朝倉の地を去る

 昭和43年8月、益城夫妻は住み慣れた烏集院を去り、鳥栖市曽根崎へ転居することになりました。
 当時の朝倉町長は、「町の宝として永住して欲しい」と懇願しましたが、「教員として、老いては子に従えと教えてきましたので」と語り、永年の感謝と町への愛着の思いを述べたそうです。
 ただ、鳥栖市は益城の父祖の地ですから、三男脩は、父君の心情を酌んで、住居を定められたものと思われます。
 曽根崎でも、相変わらず読書と書き物を続ける日常でしたが、脳溢血がもとで昭和51年1月27日死亡、89歳を一期の清廉な人生でした。振り返れば、教育・歴史・文芸など新聞雑誌に寄稿した数、120編(840回)、まさに、読み書き学ぶの成果が光ります。

(広報あさくら平成20年1月1日号掲載)

 

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