ふるさと人物誌21 原爆医療の先駆者 「調 来助」(しらべ らいすけ) 

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◆原爆医療の先駆者  調 来助


(編纂委員・山崎長太郎)

 昭和20年(1945年)8月9日、長崎に原子爆弾が投下されたとき、長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)の教授であった調来助は救護班を作り、救出や治療を先頭に立って指揮し、活動した人です。
 今回は、原爆医療の先駆者・調来助を紹介します。



●医学の道を目指して

 来助は、旧大福村大庭の調房吉の長男として明治32年(1899年)5月15日に生まれました。
 大福小学校を卒業し、県立朝倉中学校(現在の朝倉高校)に入学。大正6年に卒業し、第五高等学校(現在の熊本大学)第三部に入学。卒業後、大正9年、東京帝国大学(現在の東京大学)医学部医学科に入学しました。5年間の学業を終え、卒業と同時に第1外科の助手となり2年6カ月勤め、念願の目標であった医師としての第1歩を力強く踏み出しました。

●伊藤伝右衛門との出会い

 来助の実家は旧大福村の小さな農家で、大学に行けるだけの余裕がある生活ではありませんでした。来助は、できるだけ親に負担をかけないよう心がけ、勉学に励みました。
 また、大正時代は農家の子どもが大学に行くことは、大変難しい時代でした。こういう時代でしたから、第五高等学校在学中に学資を援助してくれる人を探していました。
 幸いなことに、九州の炭坑王といわれた伊藤伝右衛門が、県下で優秀な青少年育成のために奨学金制度(伊藤育英会)を作り、希望者を募集していました。
 第五高等学校第三部の生徒の中から1人だけ採用したいという知らせがあり、来助が選ばれました。来助は、朝倉中学からの秀才、努力家で、将来有望な人材であるということで、早速2学期から毎月25円の奨学金(当時の教員の初任給は45円)を受けることができたと「長崎医人伝」に述べられています。
 3学期を迎え、来助は奨学金のお礼に福岡の「あかがね御殿」と呼ばれている伊藤邸を訪問し、伝右衛門と白蓮夫人に厚くお礼を述べました。伊藤夫妻は大変喜ばれ、3人で楽しく会食をしました。その折りに将来のことなども話題となり、東京帝国大学医学部への入学希望も話されたと想像されます。
 東京帝国大学に合格すると、早速今までの2倍の月50円の奨学金が支給されることになりました。
 来助は、奨学金と軍人である叔父の援助で、東京帝国大学医学部を卒業することができました。このような援助に感謝した来助は、「人様に恩を受けたら必ず恩に報い、恩を返す」という信条を持ち、以来このことを実践しました。

●中国・朝鮮病院派遣

 初志貫徹を成し遂げた来助には、大きな期待がかけられました。それは海外派遣でした。大正15年9月、北京医院外科医長に27歳の若さで赴任しました。これは、日清戦争後の日本と中華民国(現在の中国)の友好親善という日本の大きな目的と、同仁会(医界と民間外交団体幹部が作った医療事業団体)の主な活動である中華民国の医学・薬学およびその技術を普及させ、一般衛生状態の改善を図るという大きな使命がありました。来助は、2年半にわたり実践し、成果を上げました。
 さらに昭和4年4月からは、現在の韓国の朝鮮京城帝国大学第2外科助教授として8年間にわたって朝鮮の医学の普及と優秀な医師の養成に尽力しました(昭和9年に医学博士号取得)。
 昭和12年5月からは、朝鮮全羅南道立光州医院長を5年間務め、医療業務達成のために努力しました。およそ15年間の長い海外派遣で、日本医学の普及と日・中・韓の友好親善を、医学を通して立派に果たした彼の功績は高く評価されました。

●原爆被爆の悪夢

 来助は、朝鮮から帰国後、東京帝国大学の推薦と長崎医科大学の強い要請を受け、昭和17年4月、長崎医科大学第1外科教授に就任し、以来、23年間優秀な医師の養成と医学研究に没頭しました。
 昭和20年8月9日の原子爆弾投下で自らも被爆し、原爆症に耐えながら、被爆者の治療・救済に努め、その悲惨さを「医師の証言長崎原爆体験」や、被爆者約8千人の治療と同時に原爆による症状等を分析して「原爆障害の大要」として報告しました。
 この「医師の証言長崎原爆体験」の中には、「長崎の鐘」や「この子を残して」の著者・永井隆助教授の活動や、永井助教授を手術したこと、多くの教授や学生たちの看護の様子等が詳細に記述されています。
 特に、来助が2人の息子を原爆で亡くしながら、多くの市民の救済のため家族ぐるみで看護・治療にあたったことは、涙なしには読めません。
 この記録からは、彼の医師としての使命感の素晴らしさだけではなく、原爆の恐ろしさ、悲惨さ、原爆投下への怒り、戦争という悪魔に対する憎しみが、心の底から湧いてきます。

●大福小学校の調文庫

 来助は、大福小学校で楽しく学んだこと、そのおかげで今日の自分があること、お世話になった故郷の学校へぜひ恩返しがしたいという思いで、昭和44年から平成元年に亡くなるまで、毎年10万円の図書費を寄贈しました。彼の死後は、妻がその遺志をを継いで、平成10年まで続けられました。
 大福小学校はこれに感謝して、図書館の中に「調文庫」を作りました。その数は数千冊にのぼり、今なお子どもたちに利用されています。また、郷土思いの来助の心に報いるため、6年生の長崎への修学旅行には、毎年必ず調家を訪れ、お参りと交流が今も続けられ、生きた平和教育が行われています。
 また、原爆で亡くなった2人の息子の出身校である長崎西高校には、2人がお世話になった恩返しに、奨学金が贈られています。

●医師一家の調家

 来助は、不幸にして原爆病にかかりましたが、この難病を克服して、89歳まで
医学一筋に生き続けました。
 長女・朝子には、外科医の田崎丞治を婿養子に迎えました。丞治は、大分大学医学部第2外科教授でしたが、平成13年に亡くなりました。
 丞治と朝子の息子は3人とも医学者で、長男・漸は、現在、長崎大学の副学長、次男・恒明は山口大学医学部を卒業し、山口県環境健康管理センター所長、三男・憲は九州大学医学部を卒業し、現在、飯塚病院外科医として活躍しています。
 正に三代にわたってお医者さん一家で、社会医療、医学研究に大いに貢献されています。


【受賞歴】
・勲二等瑞宝章
・長崎市名誉市民
・長崎新聞文化賞

【参考資料】
・長崎医人伝
・医師の証言 長崎原爆体験
・原爆被爆分析資料

(広報あさくら平成21年2月1日号掲載)

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