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ふるさと人物誌23 邑に「学び舎」を起こした 「井上 節堂」(いのうえ せつどう) 

登録日:2011年03月21日

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                       邑に「学び舎」を起こした  井上 節堂
 

(編纂委員・八尋節夫)


 

●わが国における学校制度の始まり
 井上節堂(本名・収)を語る前に、わが国の学校制度がいつから、どんな形で発足したかについて触れておきたいと思います。
 それは、幕末・徳川300年の封建社会から解放された明治元年(1868年)あたりから始まったといえるのではないでしょうか。
 誕生したばかりの明治新政府は、明治4年に教育行政の府として文部省を設置、直ちに12人の学制取調掛りを任命し「学制」条文の起草にあたらせました。そして明治5年8月3日、太政官布告で「学制」を公布しました。つまり近代的国民教育制度を作り上げたのです。
 これは、わが国の教育の宣言ともいうべきもので、子どもを入学させることは親の責任であり、必ずこれを果たさなければならないものとしました。それには次のように書かれています。
 『人々自らその身を立てその産を治め、その業を盛んにして以ってその生を遂ぐる所以のものは他なし。身を修め智を開き、才芸を長ずるによるなり。而してその身を修め智を開き才芸を長ずるは、学にあらざれば能わず、これ学校の設ある所以にして、爾今以後一般の人民必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す。人の父兄たるものよろしくこの意を体認し、その愛育の情を厚くし、その子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるものなり。高上の学に至ってはその人の機能に任すと雖も、幼童の子弟は男女の別なく小学に従事せざるものはその父兄の罪となろう。』
 こうして全国を8大学区、256中学区、5万3760小学区に分け、それぞれの学区に大学、中学、小学校を配置するという制度を設け、全国いたるところでその実現に向けて動き出したのでした。それこそ合理的・体系的・梯子型の国民教育制度の下、小学校教育を義務化したものであり、これらは欧米の近代学術の吸収を主としたものでありました。
 明治12年(1879年)には「教育令」を公布して、教育を地方の実情に即するように、明治14年には「小学教員心得」を発するなどして、次第にわが国の教育を不動のものとなるよう努めてきました。

 

●初めて誕生した邑の小学校
 こうした国の流れは、当然私たちの郷土にも入ってきました。早速 明治7年に私どもが住む朝倉市・郡の26カ所に小学校が誕生しています。しかし、どの学校も教師はほとんど1人で、学ぶ生徒は多い所で100人ほど、少ない所で15人ほどだったと当時の記録に記されています。まさに、にわか仕立ての学校といえるかも知れません。
 特に、私たちの地域は農村であり、中にはこの時代の風習として「百姓に何で学問がいる。紙や筆に銭を出して、子どもに学問させるやつは、田んぼに草を生やすもとじゃ」といわれ、ためらいを持つ者もいました。

 

●下座郡長田村の井上節堂
 そうした地元に誕生したばかりの26の小学校の1つに「長田小学校」があります。現在の蜷城地区で長田村藤島神社の社殿を仮教場にして開校したものです。実は、そこの最初の教師として白羽の矢を射止められたのが、これから紹介する井上節堂です。
 節堂は、天保9年(1838年)に秋月藩の松村方成の子どもとして生まれましたが、同藩の井上正敬の養子となりました。21歳で秋月稽古館の訓導となった後、藩主の侍講も兼ねたほどの英才でありました。儒学に精通し、およそ読まない書は無いというほどの読書家であり、博学の人といえます。
 明治維新後、廃藩のため職を失い、自分の住まいを当地下座郡長田村に移していました。そして、この度の小学校設立の話が出てきたのです。今になって思うことですが、節堂が居たからここに学校を設立したのか、それともこの地に学校設立を決めたとき、偶然に節堂の存在を知ったものか。いずれにせよ、幸いにもこの地に余人ならぬ井上節堂という人材を得たことは、村にとっても大きな喜びだったに違いないと思います。早速、村の要請で明治7年(1874年)2月から明治14年2月まで長田小学校の首座訓導として勤めることになりました。

 

●邑の学び舎・長田小学校の誕生
 しかし、当初は就学率も低く、低調な取り組みだったようです。なぜならば、農村では小学校を1校設けること自体厳しいものがありました。小学校に要する運営経費は、管内村々の各戸の賦課金や有志による寄付金などに頼らなければならず、住民に多くの負担をかけることになるからです。そのため村長は、小学世話役として任命され、そのために大変な苦労を余儀なくされました。
 小学校の修業年限は、当初は2年間でしたが、そのうち4年間に延びたようです。進級や卒業は、他所の学校と組んで試験を課し、その結果によるものでした。試験に優秀な成績を収めると、賞を与えられ、学校も家族も大変名誉なことでありました。
 幸いにも、節堂の指導は実に行き届いており、評判を聞きつけて次第に児童数は増え始めます。初めは藤島の仮教場で男子生徒48人、女子生徒5人の53人でしたが、新たに当初の区域を拡大して、明治8年12月には同じ蜷城地区の林田村に移転。蜷城小学校と呼称し、美奈宜神社の社務所を校舎として選びました。このときすでに男子生徒113人、女子生徒17人で合計130人となり、校区も現在の蜷城小学校区と同等の範囲となりました。
 その後、明治13年6月に県立甘木中学校が設立され、まもなく節堂は同校で漢学を教えることになります。ところが、県の財政が行き詰まり、勤務先の中学校が明治18年に廃校となってしまいます。そのため、行き場を無くした生徒とともに郡立勉成学校に移って引き続き教えますが、さらにこの学校も学校令で廃校となり、今度は小田塾取水舎で教鞭を取るという具合に、節堂にしてみれば実に落ち着かない状態が続きました。
 しかし、節堂は何事にも気さくな人で、時には出かけていって生徒の面倒を見たり、時には東京・京都・大阪等を歴遊したり、いたるところで気の合う人と見れば意気投合して派手に振る舞うなど、人を区別することなく接していたようです。また、日常的な問題から倫理的な生き方についてまで、相談を受ければ熱心に相手が納得するまで、懇切に面倒を見ました。普段は、暇さえあれば詩を吟じたりしていたようで、詩文集も数巻著したようです。
 明治21年(1888年)5月、節堂は、教師不足のため、再び県から林田尋常小学校の教師として要請を受け、渋ることなくここで9年間勤め、69歳で依願退職しました。
 その後は、節堂に教えを請うものがいれば、だれにでも快く教えたことから、遠い近いの区別無く各地から多くの人が教えを受けにやって来ました。それこそ、正に郷土教育界の素晴しき先導者といえます。文部省は、こうした働きに対して特にその労を賞し、記念に字典や硯箱を贈りました。
 大正元年(1912年)、節堂は74歳で生涯を閉じました。節堂の死後、長男・松之助もまた父の志を継いで郷土教育の充実のため、さらなる努力を続けていきました。
 このようにして私たちの地域にいくつも学校が生まれましたが、そこには井上節堂と同じように苦労をいとわず学校を創立し、ひたすら明日を担う地域の子どもたちの教育にあたってきた数多くの優れた先人がいたことも、私たちは忘れてはならないと思います。

 

【参考資料】
・村誌ひなしろ、甘木市史、甘木朝倉教育史、教育全鑑

(広報あさくら平成21年4月1日号掲載)

 

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