ふるさと人物誌24 戦後司法界の功労者 「馬場 義続」(ばば よしつぐ)

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◆戦後司法界の功労者  馬場 義続

(編纂委員・川端正夫)

 馬場義続は上秋月出身で、「検事総長」という世の中の正義を守る役人(法務官僚)として最高の地位に上り詰め、戦後の激動の日本社会と国際司法の場で、その見識・能力・情熱を発揮した人です。義続は、勉学に優れ、仕事上有能であっただけでなく、人情に厚く、郷土や職場の同僚・後輩を大切にしたことで知られています。厳しさと温かさを兼ね備え、身をもって後進に範を示した教育者でした。


 


●上秋月時代と佐藤東岸先生
 明治35年(1902年)、義続は、9人兄弟の長男として上秋月の農家に生まれました。父親は農業を営み、足が悪かったのですが大工もしていました。母親は、知人をもてなすのが好きな大変明るい人柄でした。
 上秋月は、小石原川が江川の谷から出た所に開けた小平野で、古くから水田が営まれ、江川から小石原を経て英彦山へ通ずる道(国道500号線)が通っています。清流と山の幸に恵まれたこの地で、義続は育ちました。義続は幼いころから活発で、上秋月尋常小学校に入学すると成績は常に1番。足も速く運動会で大活躍するなど、勉学・運動両方に優れた子どもでした。
 当時の上秋月小学校には佐藤東岸という若い教師がいて、「不撓不屈、一直線に進め」という精神をもって生徒を指導しました。東岸先生に可愛がられた義続は、断固とした不屈の意志を鍛えられたのでしょう。東岸先生は上秋月の専念寺住職でもあり、後に上秋月農協長なども務め、製茶工場を作るなど地域の活性化に貢献しました。義続は、後に第五高等学校(現在の熊本大学)に進んでからも、夏の帰省の際には専念寺の涼しい座敷で勉学に励んだそうで、師弟の関係は後年まで変りませんでした。
 明治・大正時代、学校の成績が極めて優秀な子は、小学校を卒業すると旧制中学校に進み、高等学校・大学へと進学して社会で指導的な立場につきましたが、これは経済的にかなり恵まれた家庭でないと難しいことでした。義続は、家庭の事情から、尋常小学校を終えると旧制中学校ではなく高等小学校(2年間)に進み、卒業後は八幡製鉄所(現在の新日本製鉄)の職工養成所に入り、働きながら門司の私立豊国中学校の夜学で勉強しました。高等学校進学の希望を捨てなかったのです。


●旧制田川中学と田中常憲校長
 義続は、旧制高等学校進学に必要であった県立中学校への転入を強く希望しましたが、郷里の県立朝倉中学校(現在の朝倉高校)は、私立中学校からの転入を許可しませんでした。義続が幸運だったのは、そのころ県立田川中学校が創立。初代校長・田中常憲の英断で義続の4年生への転入が許可されたことです。大正9年(1920年)4月、義続18歳の春のことです。
 田中校長は、義続の転入を許可しただけでなく田川郡育英会奨学生に推薦し、田川の有力者であった筑豊銀行頭取柳武亀太郎の援助を取り付けました。このことから、義続にとって田川は第二の故郷となり、田中校長と柳武頭取は生涯の恩人となりました。
 田中校長は鹿児島県出身の優れた教育者(国語・漢文)で、「水平線上に突起をつくれ」と説いて多くの学生に影響を与えた人物です。義続は、田中校長と田川中学校への恩義を生涯忘れることなく、後輩のため東京に「田川学舎」を建設し、同窓会「岳陽会」の会長となるなど力を尽くしました。
 義続は、田川中学校4年修了で旧制第五高等学校文科に進学し、優秀な成績で東京帝国大学(現在の東京大学)法学部に進学します。


●法務官僚~戦後復興、経済疑獄事件
 東京帝国大学を卒業後、高等試験(当時の高級官僚登用試験)に合格し、昭和4年(1929年)、東京区で検事となり、若手検事として活動を始めます。次第に軍部の圧力が強まり、学問・言論の自由や司法の独立が危機に瀕し、戦時経済統制が強まるなか、義続は首都・東京で職務に励み、経済検察の第一人者として頭角をあらわしました。
 昭和20年(1945年)、日本はアメリカ軍占領下で治安は悪化、食糧難、闇経済が横行します。義続は、日々発生する犯罪案件を日比谷公園のバラック庁舎で懸命に処理しつつ、新刑事訴訟法制定など新しい司法制度確立に力を尽くします。
 戦後、日本社会は混乱を極め、労働者と経営者間の対立や将来の社会像をめぐる対立から「メーデー事件」「下山事件」「三鷹事件」など難事件が発生。また、急速な制度改革と経済復興に伴う公的融資制度の導入をめぐり「昭電疑獄」「造船疑獄」など脱税事件や贈収賄事件が多発しました。
 義続は、東京地方検察庁の検事としてそれら難事件捜査の陣頭指揮を執り、抜群の記憶力と明晰な論理能力を発揮、緻密で徹底した捜査と大胆果断な実行力で容疑者を逮捕・起訴しました。これは職務とはいえ、自身も部下も生命を懸けた仕事でした。政治の介入で実刑にできなかった例が多いのですが、その中には福田赳夫、大野伴睦、芦田均など政界の実力者も多数いました。義続は、後に「ロッキード事件」「リクルート事件」「佐川事件」などを摘発した東京地検特捜部の創始者でもあります。
 義続は検事として、容疑があれば権力機構でも怯まず捜査対象としましたが、「検察はあくまで脇役の外科医であり、国会や社会の浄化の主役は国民である」と度々語っていました。


●事務次官~検事総長、国際社会での活躍
 日本は戦後の混乱を経て何とか独立を果たし、昭和31年に国際連合に加盟します。昭和30年以降、義続は最高検察庁を経て法務省事務次官になり、昭和39年から3年間は検事総長として、日本司法の中心で司法制度の研究・確立と、司法の国際協力を推進します。
 また、法務総合研究所の初代所長として司法の研究体制を主導、日本初の国連機関として「アジア極東犯罪防止研修所」を誘致し、アジア各国の司法官育成に尽力。「犯罪防止および犯罪者の扱い」に関する国連会議を主催し、より良い司法制度の国際研究を推進しました。これらの事業は後進に受継がれ、日本司法界の国際的評価を支えています。
 その長年の功績が評価され、昭和47年に勲一等旭日大綬章を受章しました。


●「秋月郷土館」と「秋月小・馬場文庫」
 義続は、郷土秋月にも多大な貢献をしました。昭和40年、旧秋月藩主黒田家の家宝(甲冑、古文書、調度品など)を中心に設立された「秋月郷土館」建設にあたって、出光興産の出光佐三やブリヂストンの石橋正二郎などから多額の寄付を受けることができたのは、郷土を愛し、美術愛好家でもあった義続の尽力によるものといわれています。その後、郷土館は美術館も併設し、現在も秋月の文化観光の拠点となっています。
 昭和45年、江川・上秋月・秋月・安川の4小学校が統合され「秋月小学校」ができた際、義続は辞典・美術書・伝記類などの図書購入費として多額の私費を寄付しました。自分が小学生のころ身近に本が無かったことから、幼い後輩たちに一流の読書環境を整え、一文を添えて子どもたちに読書と勉学を勧め、温かく激励しました。この図書は「馬場文庫」と名づけられ、その一文と共に今でも大切に利用されています。
 義続は、ずっと東京での生活でしたが、田川の恩人宅と秋月には機会あるごとに立ち寄り、旧恩・旧交を温めました。秋月に来ると、よく古処学園の子どもたちと古処山に登ったそうで、山頂で撮られた晩年の写真が残っています。そこには、かつて周囲を圧倒する迫力で畏敬された人とは思えぬ穏やかな笑顔が見えます。
 義続は、昭和42年の公職引退後も司法界を見守り続け、先輩としての助言・指導を惜しみませんでしたが、昭和52年2月、病に倒れ、東京の警察病院で亡くなりました。74歳でした。



【参考資料】
馬場義続追想録(昭和52年、馬場義続追想録刊行会)、朝倉新聞(第344号、平成12年9月7日付け)

(広報あさくら平成21年4月1日号掲載)

 

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