ふるさと人物誌27 朝倉考古学の先駆者 「坂本 真鈴」(さかもと ますず) 

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◆朝倉考古学の先駆者  坂本 真鈴

(編纂委員・松本憲明)

  朝倉地方に人が住み始めたのは大昔のこと? 米作りやクニの誕生はいつのこと? 大きな前方後円墳はなぜできたの?
 だれもが抱く素朴な疑問を解明したいと、朝倉の各地を巡り遺物を収集し調査研究を行った考古学者、坂本真鈴を紹介します。
 真鈴は明治23年(1890年)12月4日、熊本県玉名郡賢木村上長田に、宮司・坂本厳生の次男として生まれました。日露開戦の翌年、熊本県立玉名中学校に入学し、日韓併合が行われた明治43年に卒業しました。
 宮司家の優秀な若者は郷土の期待を受け、伊勢の神宮皇學館本科に進みました。少年時代から古代への探究心に燃え、ひまを見ては郷土の野山を巡って、遺跡や遺物を発見したと語り伝えられています。


 


●福岡県立朝倉中学校へ
 神宮皇學館卒業後、熊本県で私立鎮西中学校を振り出しに県立玉名中学校、県立天草高等女学校で教鞭をとり、大正12年(1923年)3月、福岡県に移り県立三池中学校の教諭になりました。この年、真鈴は考古学雑誌に「天草の板碑」と「肥後国西北部の古墳」の二論文を発表、精緻な古墳の実測図は高い評価を受けました。当時、九州から考古学雑誌に寄稿する研究者はまれで、のちには九州考古学の草分けと呼ばれています。
 大正13年5月、県立朝倉中学校へ赴任し、国語、漢文を担当しました。この異動は、真鈴の希望かも知れません。遺跡が多く歴史豊かな朝倉は、考古学を志す者にとって、魅力的な風土でした。


●中山平次郎博士に師事
 大正14年(1925年)1月~2月、福田村栗山で、弥生時代の甕棺から貝輪(装身具)と鉄戈(武器)が偶然発見されました。
 栗山の遺跡遺物を調査した九州大学医学部の中山平次郎博士が報告会を開催しますが、このとき真鈴は中山博士のお供をしています。すでに、考古学を通して師弟関係にあったと考えられます。真鈴は博士の指導を受け、原始社会の解明という高い目標を掲げて、考古学の研究にいそしみました。


●盛んに遺跡遺物を発見
 真鈴と家族は、甘木町内将校町(現在の琴平町の一部)に居住しました。朝倉軌道など交通の便も良いことから、休日には家族を伴って野外調査に出かけました。こうして朝倉・三井両郡で多数の遺跡を発見しました。収集遺物には石器や土器のほか、青銅や鉄製の武器など貴重な物もありました。
 また、この地域で未発見であった縄文土器は、宮野村八並遺跡で、真鈴の三男の八栄が破片を拾い、朝倉の歴史は縄文時代までさかのぼることが分かりました。


●弥生の王墓に迫る
 遺跡の分布調査を終えた真鈴は、朝倉の原始社会を次のように考えました。
 「この地域は宝満川・小石原川・佐田川・桂川などの河川で区切られ、交互に台地や平野があるので、始めのころ人々は分散し小集団で暮らしていた。
 米作りが盛んになるにつれムラができた。鉄戈と貝輪出土の福田村栗山遺跡、鉄戈と内行花文鏡出土の夜須村峯遺跡、銅矛と丹塗り磨研の土器が出た三輪村栗田遺跡が物語るのは、権力者の出現である。遺物を内蔵した甕棺の形式からクニの起源は弥生時代の中ごろだ。そして、頂点に立つ王の墓がきっとどこかにある」。
 真鈴はやがて、王墓と思われる三輪村大塚遺跡にたどり着きます。この遺跡は、鏡など多数の遺物を出土した春日村・須玖岡本遺跡(奴國王墓)に外部構造がよく似ており、大発見だと確信しました。真鈴は発掘調査を決意し、地主を説得しますが同意を得られず、朝倉の王墓は、幻と消えました。


●茶臼塚前方後円墳の調査
 福田村小田に、前方後円墳の茶臼塚があることは知られていました。昭和3年(1928年)4月19日、道路工事のため後円部南方を大きく削除され、急報で真鈴が到着したとき、すでに石室の前半分が破壊されていました。
 工事に追われながら遺物の発見に全力を注ぎ、兜と短甲(鎧)一領を収集しました。4月21日まで調査を続行し、玉類・管玉・鉄鏃・鉄鉾などが出土しています。また、村民が収集し後日寄贈された遺物に、四環鈴などの馬具や、赤色顔料をすり潰した勾玉型の石製杵があります。この古墳は、昭和54年(1979年)9月、「小田茶臼塚古墳」として国の史跡に指定されました。


●家形埴輪の研究
 昭和6年(1931年)7月、志波村宝満宮境内の丘が長雨のため部分崩壊し石棺が露出したため、鏡・直刀・家形埴輪(破片)などが発見されました。役場からの依頼で、福岡県が調査員を派遣しています。
 県の調査から数日後、遺跡を訪れた真鈴は、家形埴輪に着目しました。埴輪の破片は二軒分以上あり、家屋の形式は切り妻造りと四注造りです。仔細に観察すると、切り妻の屋根に網代(編物の覆い)模様があり、古代建築様式を研究する上で重要な発見となりました。


●割れた内行花文鏡
 昭和8年(1933年)1月、朝倉村山田後山で地ならし作業中に箱式石棺四基が現れ、真鈴は遺跡に駆けつけました。調査の結果、二基の石棺からそれぞれ鏡一枚を発見しています。 一枚は破鏡でしたが、中国の後漢で製造された内行花文鏡、もう一枚は日本国内製の内行花文鏡でした。「弥生時代の中ごろ、倭国王は後漢に使いを送っている。破片の内行花文鏡は、そのとき後漢の王から贈られた物かもしれない」。古代鏡の破片から、壮大な歴史ロマンが、真鈴の脳裏を駆け巡りました。


●朝倉郷土研究会と真鈴
 小学校校長だった古賀益城たちは、郷土教育を提唱し、調査研究を進めるため、昭和8年に「朝倉郷土研究会」を発足させました。同研究会の会報「朝倉」には、郷土に関する伝説・民俗・地理・歴史・理科の研究成果が収録されています。
 編集責任者となった真鈴は「朝倉考古学講座」を連載執筆し、地域考古学の普及に努めました。


●「朝倉郡誌・考古編」、刊行できず
 昭和15年(1940年)、朝倉郡教育会は朝倉郷土研究会の成果を基礎に、「朝倉郡誌」の刊行を決定しました。地理編から郷土年表まで13冊に及ぶ画期的構想でしたが、太平洋戦争で刊行できずに終わりました。
 真鈴は考古編を担当し、原稿を提出していただけに悔やまれました。稿本として残った郡誌考古編は「朝倉郡考古学概説」と呼べるほど完成度が高く、戦後の調査研究に大きく寄与しました。


●考古学者をつらぬく
 真鈴は昭和15年に県立戸畑高等女学校へ転任し、同18年には福岡柳河盲学校長となりますが、同21年に退職し熊本県南関町に帰郷しました。昭和34年から39年まで町の教育委員長を務め、真鈴の指導のもと、町内史跡の実態調査が実施されました。真鈴は昭和41年(1966年)7月、75歳で病没しました。南関町史には「静かな情熱を秘め、積極的に行動した考古学者」と紹介されています。



【参考資料】
坂本真鈴著/稿本朝倉郡誌・考古編

(広報あさくら平成21年10月1日号掲載)

 

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