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ふるさと人物誌31 秋月藩の財政再建に奔走した「間 小四郎」(あいだ こしろう) 

登録日:2011年03月21日

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◆秋月藩の財政再建に奔走した 間小四郎
 

(編纂委員・三浦良一)

 江戸時代も中期になると、どこの藩も財政が苦しくなり、大商人からの借財が膨らみ藩の政治が揺るぎ出しました。秋月藩においても1800年代の初めに家老の不正が発覚して秋月藩の存続を危うくする事態を迎えましたが、このとき藩の財政再建や藩政の改革に奔走した人物に間小四郎がいます。


 

 

●秋月藩の財政事情
 間小四郎は、天明7年(1787年)に吉田太郎大夫勝知(馬廻280石)の次男として生まれました。幼少のころから聡明であったといわれています。19歳のとき、間篤実充(馬廻250石)の養子となって家督を継ぎ、間小四郎俊勝を名乗りました。
 秋月藩では、文化4年(1807年)に八代藩主長舒が亡くなり、長韶が九代藩主になりましたが、若年のため藩政の実権は筆頭家老の宮崎織部舒安が掌握していました。名君といわれた長舒は、学問を奨励したり、有能な人材を召し抱えたり、新しい産業を保護したりと進歩的な政治を推し進めましたが、そのために藩の財政負担は大きく、藩庫は底をついていました。
 藩主長韶の信任を得た家老の宮崎織部は、この財政難にあたり、家臣の上米(所務渡米の減額)と富裕な商人からの献金や借り入れで対処しようとしました。この上米の実施に対して家臣一統に不満がありました。

 

●文化8年の政変「織部崩れ」
 文化8年11月、間小四郎は伊藤惣兵衛ら六人の同志と語らって「家老宮崎織部達に不正あり」と、本家である福岡藩主に訴え出ました。秋月で訴えても家老たちに握りつぶされることを予想したからです。訴えの内容は「筆頭家老宮崎織部、財用方家老渡辺帯刀とその同腹の者は、若い藩主を侮蔑して藩政を牛耳り、政事に不公平多く、藩士の窮乏をよそに、商人からの賄賂で贅沢をし女色に溺れて性根宜しからず、また公金を使って豪遊している」というものです。出訴を受けた福岡藩は家老を秋月に派遣して、事実関係を調査し、訴えの多くのことが事実であったので、宮崎、渡辺の両家老は罷免されて福岡沖合の姫島、大島に流罪、その他十数人の者が処分されました。この中には用人・郡奉行・勘定奉行など藩の重要な役職にいた者が含まれ、秋月藩の政治は中枢が崩壊した状態になりました。この事件を「織部崩れ」と呼んでいます。

 

●秋月藩の危機と福岡藩の介入
 秋月藩がつぶれるかもしれないとの危機感に家臣・領民は動揺しましたが、同時に秋月藩に金子を貸し付けている大坂・博多などの商人たちもこの事件に驚いて、一斉に貸付金の返済を迫りました。しかし返済するお金はありません。新しく就任した家老や重臣たちはおろおろするばかりでした。
 結局は本家である福岡藩に支援を求めることしか手立てはありません。福岡藩も分家の危機を見捨てておけず、秋月御用請持の役名で沢木七郎大夫を秋月に派遣しました。着任した沢木七郎大夫は、まず秋月藩の借財を調べましたが、負債総額は銀3800貫余(現在で約63億円)で、このうちの8割は大坂の商人からの借り入れと分かりました。
 文化14年に、沢木に代わって井手勘七が秋月御用請持として福岡から着任しました。井手勘七は、秋月藩の郡奉行の職にあった間小四郎の人物と力量を信頼して、井手勘七と間小四郎の二人で秋月藩の財政再建を図ることにしました。
 まず、福岡藩から15年間に総額15万俵の米を支援してもらって、これは主に江戸藩邸の費用にあてることにしました。秋月藩士の所務渡米を数年間は知行禄高の半分以下にして、借財の返済にあてることにしました。文政4年(1821年)には、勘七と小四郎の両人が大坂へのぼり、債権者の商人と折衝して12年間の返済猶予の約束に成功しました。

 

●郡奉行としての農政改革
 間小四郎は、文化12年(1815年)に郡奉行に就任してから、農村支配の仕組みを改編しました。まず年貢取り立ての方法を、代官がその年の収穫を検分して取り立てる方式から、大庄屋が村軸帳(農地の基本台帳)を基に豊凶にかかわらず一定量の年貢を納入する方式に改めました。これは福岡藩の方式を見習ったもので、年貢が確実に収納されるようにしたものです。
 農民のこれまでの年貢の未納米を帳消しにし、商人が農民に貸し付けた金子も帳消しにすることを求めました。農民の夫役(人夫労働)を軽減させて農民を保護しました。また凶作に備えて米を備蓄する仕組みを創設しました。河川の堤防や井手を石積みにして洪水に備えさせました。遠賀川の上流を改修して年貢米の積み出しを川舟でできるようにしました。山間部を公儀山と村渡山に区分して植林を奨めました。
 これらの事績は小四郎が隠居後に記した余楽斎手記に詳しく述べられています。文政3年からは、土井正就と大倉種周を起用して藩内の大掛かりな検地を実施しました。この検地は13年かけて行い、極めて詳細な藩内の測量絵図(秋月封内図)として完成しました。
 小四郎は文政4年からは町奉行も兼任し、同7年には中老職に昇り用人役と郡・町奉行も兼任しました。文政6年に井手勘七が福岡に帰った後も、その明晰な頭脳と卓越した手腕で秋月の藩政を主導しました。文政12年(1829年)、小四郎は43歳のとき隠居を願い出て許され、余楽斎と号して悠々自適の生活に入りました。

 

●十代藩主長元と間小四郎
 天保元年(1830年)、藩主長韶が退隠して、土佐藩の山内家から養子に迎えた長元が十代藩主を襲封しました。長元は秋月に入ってから藩士たちの士気が低いことに驚きました。秋月は尚武の藩と聞いていたのにその気風がまったく見えません。
 家老を務めた田代政美は手記の中で「文化8年の政変以来、何ごとも福岡藩から派遣された秋月御用請持の言いなりで、秋月の家老を始め執政の者は床の間の置物同然、政務を担当する気概を持てないでいる。藩士たちも長年の上米のために耐乏生活を強いられて武芸に励む余裕がない」と述べていますが、この意見は藩の重臣の感情を代弁するもので、その中には、福岡藩の威光を背にして井手勘七と二人で藩政を独善的に仕切ってきた間小四郎に対する重臣たちの反感が込められています。長元は藩士たちの気風を刷新するために手を尽くしましたが、同時に間小四郎が進めた諸改革のうち年貢取り立ての手法などは従前の方法に戻させました。
 弘化2年(1845年)、間小四郎余楽斎は突然呼び出されて「御主君の思し召しに叶わず」との理由で、博多湾の玄界島に流罪を申し渡されました。その訳は藩主長元の廃立の陰謀を企てた罪という噂が流れましたが真相の程は不明のままでした。
 嘉永5年(1852年)に流罪を赦免されて嘉麻郡桑野村に蟄居を命じられ、淋しい晩年を過ごし、3年後の安政2年6月、同所において死没しました。享年69歳でした。

 

【参考資料】
・三浦末雄著/物語秋月史 下巻
・甘木市史 上巻・資料編

(広報あさくら平成22年4月1日号掲載)

 

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