ふるさと人物誌33 幟に情熱を注いだ二人 「梶原虎次・熊本与市」(かじわらとらじ・くまもとよいち) 

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◆幟に情熱を注いだ二人 梶原虎次・熊本与市

(編纂委員・安陪悟)

 歴史の表舞台で活躍し、歴史にその名を刻む人がいる一方で、地味ながらも自分の信念を貫き通し、地域で伝統の技を伝えた偉大な人物もいます。
 私たちの故郷で、幟職人として情熱を注いだ、杷木染幟職人・梶原虎次と、甘木染幟職人・熊本与市を紹介します。


 


●独学で幟職人になった 梶原虎次
 虎次は、米山を源流とする筑後川の支流、白木谷川のほとり、杷木池田に、慶応元年(1865年)、梶原仁助の長男として生まれました。父・仁助は、鍛冶を業とする職人で、農具を製作するかたわら、刀鍛冶としても地域で名の通った人物でした。
 虎次は、幼いころから父の仕事を受け継ぎたいと思っていましたが、父に連れられ神社にたびたび参拝するうちに拝殿の絵馬に興味を持ち始め、暇があれば武者姿の絵を描くようになります。
 そしてある日、父から「お前はこのごろ、絵を描くことばかり夢中になっているが、家業の鍛冶を、長男のお前に継いでもらいたい」といわれます。いつかはこの日が来ると思っていた虎次は「実は父さん、絵馬に描かれた武者姿の絵が好きで、絵師になりたい」と打ち明けます。
 父・仁助は、顔を曇らせましたが、虎次の歩く道に強く反対しませんでした。


●絵の修業で上方へ
 青年期を過ぎるころ、虎次は大胆な行動に出ます。家族の反対を押し切って田畑を売り、上方に絵の修行で旅立ったのです。そして、
大坂、京都などの神社仏閣の絵馬を始め絵に関する多くのものを見聞修業し帰ってきました。
 虎次は、人から認められる立派な絵馬を描きたい一心で、古里の一番高い山「米山」を雅号とします。虎次の絵馬は、人々のうわさになり、伊勢神宮参拝の記念にと注文が相次ぎました。
 現在でも虎次の絵馬は杷木神社、久喜宮の日吉神社に残っています。


●絵馬師から幟職人へ
 虎次は絵馬師として認められ生活も安定しましたが、武者絵を別な形で生かすことができないかと考えていました。
 杷木神社に参拝し、幼い子どもが神殿に向かって柏手を打つ姿を見たとき、上方で修業中に見た端午の節句の幟が脳裏をかすめました。虎次は「そうだ。子どもたちの立身出世、無病息災を祈る幟作りを一生の仕事に」と決心します。
 その日から幟の下絵描きを始め、不眠不休で500枚以上の下絵を描き上げます。絵馬には自信がありましたが、幟は不安でした。しかし、一度決めたら後に引けません。まず注文取りから始めます。男子誕生の家を一軒一軒まわり、下絵を見せて注文を取っていきました。交通が不便な時代にたいへんな苦労でした。
 虎次の幟の武者絵は、いつしか評判になり、遠くからの注文もありました。幟職人として認められた虎次は、父への恩返しができたと思いました。
 虎次の幟職人としての技術を頼りに、日田方面から弟子入りする人も増えてきました。弟子たちには必ず、父の言葉であった「職人は作品に魂が入ってこそ真の職人」を指導の中心におき、立派な幟職人を育てました。
 独学で自らの才能を開花させた幟職人・虎次は、昭和12年、端午の節句の前日に72歳で亡くなりました。
 幟は、昭和51年、福岡県の伝統工芸品に指定され、その伝統と技術は現在にも受け継がれています。


●三奈木の手作業幟職人 熊本与市
 与市は、寺内堰から佐田川の水を三奈木川に流し、家の前を流れる小川で米や野菜を洗うことができるほど水清き三奈木の里に、明治38年(1905年)、熊本文太郎の四男として生まれました。幼少のころの与市は、学校から帰ると、道をはさんで自宅の向かい側にあった林染屋に遊びにいくことが日課でした。
 与市は父・文太郎から「お前は長男ではないから、家業の農業を継がせることはできん。だからといって分家して農業をさせるだけの田畑はない。職人として身を立ててくれないか」といわれました。
 父の話を聞いた与市は、数日考え抜いた末、「そうだ、自分の遊び場であった林米吉さんから染物の技術を習おう」と決心し、父の口添えで見習いになりました。これが与市の幟職人としての始まりです。


●本格的な幟職人の修業へ
 与市が最初に幟職人として弟子入りしたのは13歳のときで、田主丸の染物屋でした。ここで3年間修業して、甘木の染屋に再度弟子入りし、本格的な幟職人の道を歩み始めます。大正10年(1921年)、16歳のときでした。
 そのころの甘木の町には庄屋町筋に問屋9軒、染屋7軒、型屋7軒、晒屋4軒、仕上屋5軒がありました。甘木染の全盛期で、年間400反の生産をしていました。なお、甘木染は、天保5年(1834年)、甘木の町で興業を打った、7代目市川団十郎の目にとまり江戸に持ち帰られたことが始まりとされています。
 新弟子の修業の仕事は、明けても暮れても洗い張りで、冬の朝の冷たい水が身にしみました。この辛い仕事を2年間経験した後、型押しに進むのです。なかには、辛い修業に耐えかねて辞めていく弟子仲間もいました。一人前の幟職人になるためには、弟子の年期が5年間で、その後、半年間のお礼奉公が必要でした。


●刷毛一本に魂をこめて
 与市の得意な絵は、加藤清正の虎退治を始めとする、勇ましい武者絵でした。
 幟の製作過程は次のとおりです。まず木綿の生地の上に型紙をのせ、これを型板で押さえ、次にもち米で作った型地のりを塗り、生地に下絵を描きます。のりが乾いたら染色作業です。刷毛に十色あまり混ぜ合わせ、染料を含ませ、武者の顔、鎧、馬などを一つひとつ描いていきます。失敗は許されません。集中心が強く要求され、刷毛に魂をこめての手作業です。その後は、流水で水洗いしてのりを落とし、天日に干します。清流と太陽の光が幟の美しさを決めます。


●幟職人の神髄を発揮
 昭和20年(1945年)の終戦直後、一時的に空白の時代もありましたが、まもなく手作業による幟作りが復活します。修業時代の完全な手作業に、熟練の技が加わり、与市が製作した美しい幟が5月の空にたなびくようになりました。
 与市の手作業による幟に心を打たれ、注文が後を絶ちません。自分一人では仕事がさばけないので、晩年は妻・ナヲの協力を得て幟職人としての神髄を発揮しました。 
 甘木連合文化会は与市の功績をたたえ、第2回甘木文化功労章を与えます。与市は苦しかった修業の日々や、人々に喜ばれ天空にはためく幟を思いながら、平成12年(2000年)、95歳で天寿をまっとうしました。



【参考資料】
・梶原カヲル聞き取り記録
・翠(みどり)第60号(昭和61年5月)
・西鉄ニュース第318号(昭和60年11月)
・博多ばってん(昭和58年4月)

(広報あさくら平成22年7月15日号掲載)

 

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