ふるさと人物誌34 西行・良寛・愚庵を敬慕した歌人 「大坪 草二郎」(おおつぼ そうじろう) 

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◆西行・良寛・愚庵を敬慕した歌人 大坪 草二郎

(編纂委員・松本憲明)


 


●草二郎の生い立ち
 草二郎、本名・大坪市助は、明治33年(1900年)2月11日、父・梅吉、母・ユキの三男として福岡県朝倉郡上秋月村大字日向石字永谷に生まれました。父・梅吉は農家のかたわら菓子店を開き、さらに横手の川に水車を架けて麺類の製造も手がけていました。
 明治39年、上秋月尋常小学校に入学。夏に入ったころ、家族全員が熱病にかかりました。熱病は治まりましたが、4歳の弟が腹膜炎で死亡しました。父・梅吉は、この家は不吉と思い込み売り払って、一家は永谷集落の奥地に引っ越しました。
 明治42年9月には、3歳上の兄が洪水後の川へ魚取りに行き、流されて亡くなりました。度重なる不幸に耐え切れず、父・梅吉は「手伝いもせず、本ばかり読む」と、市助に当たりました。
 明治45年春、小学校を卒業。奉公に出ていた長兄が戻り、家で駄菓子製造を始めたので、父と市助は大きな包みを背負って山を越え、往復七、八里の村々を回り、菓子の行商をしました。結局、これは失敗し、一家は大きな借金を抱えました。


●働いて学んだ日々
 借金返済のため、市助は明治45年の冬から上秋月村役場の小使いになりました。幼い弟妹を抱えた生活は苦労続きでしたが、役場の仕事はいやではありませんでした。役場備え付けの本が読めたからです。読む本が無くなると秋月町の貸本屋へ出向き、借りあさりました。一方で短歌を詠み始め、『萬朝報』(注1)に歌を投稿するのが楽しみでした。
 大正5年(1916年)1月、農業技師として福岡農学校を出た大倉清周が上秋月村役場に就職しました。市助の境遇に同情した大倉は、家伝来の『万葉集略解』(注2)と『古今和歌集』(注3)を貸し与え、手ほどきをしてくれました。
 そのころ、秋月と周辺の若者集団「ホラの会」は、短歌の回覧誌『路傍』を出していました。次の短歌は『路傍』に寄せた市助の一首で、ここでは紫峰と号しています。

「来ぬ人を呼ばふる如くほろほろとふくろふ鳴くなり君待ちおれば」

 その年の5月、市助は村を出て、八幡製鉄所の見習い工員になりました。1日12時間勤務、休暇は月に一度という激務でした。しかし、職工養成所の図書室や大蔵町の図書館に通い、独学に励みました。大正6年元旦、関門日日新聞文芸欄に投稿した短歌が、草二郎の名で、特等入選を果たしました。

「落日の征箭ひとしきり射す中に蟻の虫引く努力をば見ぬ」(注4)

 当時製鉄所では、見習い工員を掃除番と蔑称しており、それをサラリとかわして、掃除と音が通じる草二郎を筆名にしたと思えます。しかし、激務で体が続かなくなり、同年2月退職し、土木請負業岡本組の現場監督になりました。


●草二郎流浪の青春
 大正7年、年明けから仕事を探して、大里・門司・彦島など各地を転々とし、人夫や船渠工事の作業員をしました。同年3月、草二郎は田川郡添田町の峯地炭鉱に入り、筑豊の炭鉱を渡り歩きました。
 神の浦炭鉱で働いたとき、40年輩の中島憲雄と知り合います。二人で遠賀郡の炭鉱を流浪の途上、中島は急に患い、亡くなりました。「俺は大学を出て家業を継ぎ、妻子もありながら、中国の革命運動に参加した」と語った中島を不憫に思い、草二郎は遺骨を抱いて熊本県山鹿の実家へ届けました。そのころを回想して詠んだ歌二首。

「老いし友と若き吾とが携へてさすらいし日の想ひはるけし」
「さすらひの少年吾がつねに持ちし基督と釈迦と孔子の伝記」


●帰郷、そして東京へ
 草二郎は身も心も疲れ果て、悄然と故郷に戻りました。家を出て、2年に近い歳月が流れていました。大正9年5月、徴兵検査を受けて不合格となり、これを機に上京を決意し、八幡時代に文通で知り合った屋敷頼雄を頼って上京しました。
 屋敷は東洋大学の学生ながら歌人でもあり、草二郎に、若手歌人が集う「行路」への入会を勧めました。この会で高田波吉らを知り、活動を始めた草二郎でしたが、9月に肋膜炎を発症し、帰郷を余儀なくされました。
 大正10年2月、再上京。今度は「アララギ」会員になり、島木赤彦に師事するかたわら日本林業社に勤めたところ8月に会社が倒産。同時に肺炎を起こし、生活さえ困難になりました。この窮状を見かねた、会社の先輩・石川明雄は、川崎町鶴見の自宅に引き取って介抱しました。他郷の人情に涙した草二郎でした。


●処女出版『雲水良寛』
 やがて病状が快方に向かうと、薬売りや工事の人夫をして働き、夜は原稿執筆に没頭しました。こうして仕上げた小説が、処女作『雲水良寛』です。この労作は、作家で「人生創造運動」の主宰者石丸梧平に認められ、大正11年5月、春秋社から出版されました。
 同年、二六新報の記者になり、琵琶新聞の顧問にも迎えられ琵琶歌を作詞するなど、明るい兆しが見えてきました。このころ、後に妻となる竹下光子を知りました。やや生活も安定し、処女作の成功もあって、草二郎の心は故郷の家族に向けられました。同年秋、帰郷。一段と穏やかになった父に、無上の親しみを覚える草二郎でした。

「おのづから心親しも草鞋つくる父の手もとをまもりてあれば」

 この年、古代に生きた人々の愛と死を描いた戯曲『曠野の花』を書き上げました。
 大正12年5月、東京市港区の南台寺に下宿を移し、作家志望の石坂洋次郎と出会い、二人は競うように創作活動に励みました。戦後石坂は朝日新聞に『青い山脈』を連載し、「百万人の作家」と呼ばれています。草二郎はこのころ、戯曲の執筆に熱心で、8月には『大海人皇子』を脱稿しました。9月、関東大震災が突発、東京は大混乱に陥りました。翌年、戯曲『大海人皇子』が、集英社より刊行されました。
 大正15年1月、盲腸炎をこじらせ床についていた故郷の父が死去、さらに3月、「アララギ」の恩師で、草二郎の良き理解者だった島木赤彦も逝去、草二郎は烈風に立つ思いがしました。
 昭和3年4月、倉田百三主宰の雑誌『生活者』に『感想・父を弔う』を発表。5月には、帝国ホテルで『曠野の花』が上演され、石丸梧平他が駆けつけ、好評を博しました。


●真実一路の草二郎
 草二郎には「文学志望の若者や少壮作家のために門戸を開きたい」との希望があり、昭和5年4月、文芸誌『つばさ』初号を発行しました。小説・戯曲・詩歌・随筆・論文が寄せられ好評でしたが、なぜか翌年9月号で休刊しています。
 もう一つ、草二郎には温めて来た大願がありました。「西行・良寛・愚庵(注5)、僧にして秀歌を詠い、人々に敬愛された三歌人を研究し、その真価を広めたい」。詩歌や文献を読み、三歌人の遺跡を訪ねては、その成果を『アララギ』他の雑誌に発表、後日、歌人別にまとめあげて出版しています。
 昭和12年7月、恩師島木赤彦の歌心を継承しようと、歌誌『あさひこ』(朝日のこと)を創刊しました。大東亜戦の戦局が悪化した昭和19年7月、「新聞雑誌統合令」で『あさひこ』は休刊に追い込まれ、草二郎と家族は千葉県印旛郡木下町に疎開します。ここで、水田二反、畑三反と少しの家畜を飼って、農家暮らしを送りました。戦後の欠乏生活が続く中で、草二郎は『あさひこ』復刊を決意、「吾々は歌によって立ち上がろう」と、会員に檄文を発しました。
 昭和21年1月、『あさひこ』復刊号が配布されています。草二郎は昭和29年1月25日、東京都豊島区長崎二丁目で永眠、54歳の生涯でした。
 昭和58年3月27日、大坪草二郎歌碑の除幕式が、歌誌『あさひこ』縁故の人々と地元有志が集い、上秋月八幡宮境内で開催されました。碑面には「ふるさとにこの朝覚めぬ外面には馬にものいふ父の聲すも」と、光子夫人の筆により、刻まれています。



(注1)『萬朝報』:明治・大正期の有力新聞。明治25年に黒岩涙香が東京で創刊した日刊紙
(注2)『万葉集略解』: 橘千蔭が著した万葉全首の註釈本。寛政12年刊行
(注3)『古今和歌集』: 最初の勅撰和歌集で、紀貫之らが撰した。延喜5年
(注4)征箭:戦闘用の矢
(注5)愚庵 :天田愚庵。幕末、現在の福島県に生まれる。15歳のとき戊辰戦争にあい、行方不明になった両親と妹を探して各地を流浪、再会を果たせず禅僧になった。正岡子規より先に万葉調の歌を詠み、近代短歌に影響を与えた

 (広報あさくら平成22年7月15日号掲載)

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