山田堰

                                                                                                            

山田堰(やまだぜき)
 
 江戸時代前期寛文3年(1633)筑後川から水を引き150haの新田が開発されました。その後更に開田をすすめ水量を確保するため取入口を変更し、岩盤をくり抜いた切貫水門となっています。
 寛政2年(1790)に至り、筑後川いっぱいを堰き止める石堰を築造し水量の増加をはかりました。
 表面積7688坪(25,370㎡)の石堰も、明治7年、明治18年、昭和55年の洪水で崩壊するなど幾多の試練にあいながら、今もなお昔の面影をとどめて670haの美田を潤しています。この山田堰の工法はペシャワール会によってアフガン復興支援の灌漑用水モデルとして活用されています。
 

 

 

 

【旧朝倉町史より抜粋】

 「千年川の水猶あるも利水の方法を知らず」「いかにかして灌水の供給を得んとは久しき間の懸案なり」と嘆き、待ち望んだ筑後川からの取水は、寛文三年(1663)に着手し翌四年に完成しました。以来、今日まで両筑平野の農業に画期的な役割を果してきた山田堰堀川の取入口は、前出の「御普請記録」に
 
 上座郡山田村恵蔵宿切貫水門より、下座郡迄堀川ができた約まりは、その昔木村長兵衛、魚庄五郎右衛門の宰判にて、寛  文三郎年より同門年の巻掛け成就致し婉と相聞え侯。其頃の水門は今の切貫水門より拾弐問下に帽川口これ有り、水門唐  戸は塩蔵ハ幡宮の前(今土橋これ有り壱番井樋の所也)然らば横二間、高さ五尺、長九聞、戸前二枚にして、始め木唐戸に仕調。云々。
 
とあり、当初筑後川から堀川への取入口は、現在の水門から一二間下流の地点であったようです。
 
 
 筑後川から水を引くためには本流を堰き上げる工事が必要でした。宝暦七年(一七五七)に画かれた上座・下座郡大川絵図を見ると、現在の石堰尻の深渕にあたる所に「鳥居岩」という岩礁があります。(この岩は後年の洪水で流失したか、山田坂犬改修の際取り除かれたものか現在では無くなっています)
 筑後川の流れは上流志波高山方面から北に向って、天智天皇ゆかりの「秋の田」旧跡の下辺をゆるやかに湾曲して流れ、恵蘇山の突端、現在水神社境内の大楠のある高台に向っています。そしてこの高台が「水ハネ」の作用をし、流水は対岸の筑後国小江村へ打ち寄せ、従って「鳥居岩」から番屋にかけては、巻き寄せの中洲のようになっていたと推測され、その鳥居岩と番屋側の高台を結んだ地点の間を、乱杭を打ち、土俵や石を投じて堰き上げたものと考えられます。
 堀川ができた寛文三年から約六十年後の享保七年(一七二二)に、切貫水門か出来るまでは、この地点から取水を続けてきたものであり、筑後川の急流に堪え得る構造であったか、若しくは洪水による流失・復旧を繰り返してきたものかは記録がなくて不明であるが、下流一五〇町歩の灌漑ができるだけの水量を保てる構造ではあったものと考えられます。
 堀川のはじめの開田面積一五〇町歩程度では、五十二万三千石の禄高である福岡藩の、新田開発奨励策から見ると僅少であり、計画に誤りがあったのではないかという説もありますが、取水できたから即日開田ができるものではありません。小松原や荒地等
はこれを開墾しなければ耕地にはなりません。開墾には相当の年月を要するものであり、毎年少しづつ開墾して行ったものと考えられます。かりに反当り二石の収量があたとして一五〇町歩では三千石の増収となり、筑後川から取水し一元〇町の水田ができたという事は、その波及効果とともにまさに画期的な大事業であったといえます
 
 
 
 
問い合わせ先:・山田堰土地改良区
      電話:0946-52-0531
      住所:朝倉市山田161
      地図:http://g.co/maps/nthh8

 

 

 

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