ふるさと人物誌2  第15代横綱 「初代 梅ヶ谷 藤太郎」(うめがたに とうたろう)


ふるさと人物誌ロゴ ◆第十五代横綱 初代 梅ヶ谷藤太郎 梅ヶ谷藤太郎の銅像(サンライズ杷木前)
 身長176センチ・体重113キロ、土俵成績116勝6敗(幕内20場所)勝率9割5分、歴代横綱で最高の成績を残し、引退後も相撲界発展に寄与した明治初期の大力士『第十五代横綱梅ヶ谷藤太郎』は、杷木志波の出身です。


●怪童、藤太郎

 藤太郎は1845年3月3日志波村梅ヶ谷に生まれました。生れつき体が大きく丸々として誰からも『ほていさん』と呼ばれ可愛がられていました。お姉さんが子守りをするとき、あまりにも重たいので、遠くにいかないように「挽き臼」にひもで結び付けて遊ばせるのが日常でした。ある日母親が野良仕事から帰ると、その「挽き臼」を引きずり這いまわっていて驚いたそうです。
 幼児期の「挽き臼」の話は小さい時からいかに力持ちであったかを示しています。
 成長するにつれ力も強くなり、また大食漢で人々を驚かせていました。藤太郎の後に食事をしようとしても、全部平らげてしまっているので皆の食事がなかったそうです。
 あるとき奉公先で山に行った時のこと、朝早くからの仕事で腹をすかせている藤太郎に、奉公先のおかみさんが「弁当おいてあるから、お前先に食べていいよ」と言ったところ10人分の弁当を全部食べケロリとしていたといいます。
藤太郎が生後7か月の頃引きずったという「挽き臼」 力は強いし素直で働き者なので皆から可愛がられていましたが、大食いのためどこの家でもしばらく使うと、理由を付けて藤太郎を追い返し長く置いてくれず、奉公先を転々としたと語り継がれています。
 人並み優れた体格と剛力に成長した藤太郎は相撲の力をめきめきつけていきました。14歳になった頃には近所の大人を投げ飛ばすほどになっていました。
 各地で行われる宮相撲大会に飛び入りで参加し地元の強豪をなぎたおし賞品をさらい、筑前の宮相撲では彼に勝てるものは誰もいません。「俺より強いものはいない」と鼻たかだかの日々を送っていました。

●藤太郎の人生を変えた運命の出会い
  
 次の年、藤太郎の将来を大きく変える運命の人と出会う事になります。その人物は、筑後の国、生羽郡千年村(うきは市吉井)の住人で四股名を『小桜』といいました。奉納相撲で対戦し、無敵のはずの『怪童藤太郎』があっけなく土俵の外に運び出されてしまったのです。
 相撲の奥深さ、難しさを感じた藤太郎はこれまでの自分を振り返り深く反省し、『小桜』に頭をさげて教えを乞いました。
 『小桜』は、その素直な人柄に心動かされ、ほれこみ、心・技・体、相撲道の手ほどきをしてくれたそうです。このときから本格的な相撲の修練が始まりました。
 『小桜』との出会いこそ大横綱『梅ヶ谷藤太郎』誕生へのスタートでありました。
 大阪相撲が筑前の国甘木にやってきた時、藤太郎は『梅ヶ谷』の四股名で飛び入りで参加し、並み居る本業の力士たちを次々と倒し『梅ヶ谷』の名は一躍近隣に響きわたりました。
 このとき、甘木には大阪相撲の『湊部屋』の地方代理人、『不取川清助』が在住していました。『清助』が藤太郎の優れた素質を見逃すはずはありません。
 『小桜』・『不取川清助』や多くの人の励ましを受け、天性の素質は磨かれていき、藤太郎は大阪相撲の『湊部屋』に入門を決意します。
 1863年1月、18歳の時でした。

●錦を飾る九州巡業

 大阪へ行ってから毎日激しい稽古が続き、都会の環境に驚きながらも相撲をとることに集中し確実に力をつけていきました。3年後には、大阪相撲の幕内に、そのひとありと京都・大阪・中国・九州地方まで『梅ヶ谷藤太郎』の名声は広がり人気力士になっていきました。
 藤太郎が故郷を出て約4年、杷木志波に錦を飾る日が来ました。湊部屋一門は力士をつれて、筑前・筑後・豊前・豊後を回る大相撲九州巡業に出発したのです。故郷を訪れた日、山々は赤々と紅葉し、燃えるように美しかったといいます。
 沿道には、怪童と呼ばれた時代から応援してくれていたたくさんの村人たち、世話になった人々が大歓声で迎えてくれました。父・母・兄・姉の誇りに満ちた喜びは藤太郎に至福の時を与えました。とりわけ父藤右衛門(73歳)の喜びはどんなであったか、祝宴の席で藤太郎のダブダブの羽織を着け踊ったり、巡業について回ったと伝えられている事からも推察できます。

●父の死を乗り越え大横綱へ

 しかし故郷凱旋巡業は喜びと共に、巡業先での父の死という悲しみを味わうことになりました。悲しみを乗り越え亡き父の供養を済まし、藤太郎は巡業一行と共に大阪へとかえっていきました。
 大阪にもどった藤太郎は以前にまして熱心に稽古に取り組み更に大きく成長していきました。大阪相撲に入門以来負けたのはわずか4番だけという抜群の強さと技量で明治3年(1870年)25歳の春、大関に昇進したのです。
 大関という地位と名声を得た藤太郎は、「さらに自分を磨きたい」と東京相撲に移る事を決意し、明治3年12月、『玉垣部屋』に入門しました。
 当時の相撲界は、東京相撲と大阪相撲の二つに分かれていて東京相撲側は大阪で強く実力があっても認めず、大阪相撲の大関でも東京相撲の最下位(序の口)からのスタートとなりました。
 東京の風は冷たく、大阪力士というだけで偏見やさげすみ、あざけりなどあくどい迫害を受けながら藤太郎は歯を食いしばって耐え、ひたすら相撲一筋心身の鍛練に励みました。その甲斐あって4年後幕内力士となり初優勝を飾りました。30歳のときです。
 相撲を愛し、稽古に励み、無類の強さを発揮する『梅ヶ谷』は人柄とともに多くの力士の尊敬をあつめ国民的英雄になり、相撲界の中心的存在になっていきます。
 明治17年(1884年)正月場所で9回目の優勝を全勝で飾った『梅ヶ谷』は横綱免許の二大権威『吉田司家(熊本)』と『五条家(京都)』の両家から横綱免許があたえられています。その年の3月天覧相撲が行われ初の横綱土俵入りを披露します。その日の対戦相手は前頭三枚目の『大達』、水入り二度でも勝負がつかず30分を越す大熱戦で引き分けています。この二人の死闘は庶民の話題となり、相撲は爆発的なブームになりました。明治18年、「横綱は不敗たるべし」の名言を残し引退。42歳でした。
 引退後も『雷部屋』を興し力士の育成、相撲協会の設立、前国技館の建設など、相撲道興隆に力をそそぎました。江戸末期、明治、大正、昭和と四時代を相撲界一筋に生き頂点を極めた『第十五代横綱梅ヶ谷藤太郎』は、昭和3年(1929年)静かに息を引き取りました。
 杷木には梅ヶ谷顕彰会の皆さんの努力で『第十五代横綱梅ヶ谷藤太郎』の銅像や記念碑が数多く設立され功績が語り継がれています。

【参考資料】第15代横綱 初代 梅ヶ谷顕彰会発行/梅ヶ谷藤太郎略伝

(広報あさくら平成18年7月1日号掲載)

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