ふるさと人物誌5  町医者にして文人 「佐野 東庵」(さの とうあん)


ふるさと人物誌ロゴ ◆町医者にして文人 佐野東庵 甘木高原町にある案内碑
 江戸時代の後半、筑前甘木の地で医業を営みながら、詩(漢詩)・画(日本画)・書の達人として、当代一流の文人(学者・芸術家)と交流し、多くの優れた作品を残し、多くの子弟を育てて、郷土の文化の興隆に力を注いだ人がいました。甘木の町の人々から親しく「東庵先生」と呼ばれたその人の名は、「佐野宏」と言いました。



●商都『甘木』

 その頃の甘木町は、筑前福岡藩(52万石)の中心である福岡・博多と、豊後の天領(江戸幕府から代官が来て直接支配した直轄地)日田との間にあって、人や物資の往来が盛んな、大変にぎやかな町でした。日田へ通ずる「日田街道」と、筑後から秋月を通って豊前小倉へ通ずる「秋月街道」の交差点であり、福岡藩の支藩であった秋月藩(5万石)とも近いことから、「甘木千軒・秋月千軒」と言われたように、武家の町秋月と商人の町甘木が双方並んで栄えていたのです。

●東庵と体の障害

 佐野東庵は寛政7年(1795年)、甘木の高原町に生まれました。「東庵」や「竹原」というのは文人としての「号」で、名前は宏、子供の頃は善太郎と呼ばれました。父は佐野茂七と言い、甘木町の大きな商家(佐野屋)の一族でした。佐野屋はハゼ蝋(ハゼの木の実をしぼって作ったロウで、蝋燭などを作る高価なもの)の取引などを行って栄えた商家で、福岡本藩や秋月藩の御用商人としても、幕末から明治の初め頃まで、西日本を中心に幅広く活躍したことで知られる家でした。
 しかし、まだ赤ん坊の頃、東庵にとっては大変なことが起きてしまいます。世話をしていた子守の人が、背中に負ぶっていた赤ん坊の東庵をあやまって地面に落としてしまい、東庵は右肩と首がくっついてしまったような不自由な体になってしまったのです。東庵はこの体の障害を生涯ひき受けて生きました。

●東庵の勉学

 東庵を産んだお母さんは、早く亡くなってしまいましたが、東庵には立派な継母(後から佐野家に来たお母さん)「たか」があり、日田の広瀬淡窓の塾(寄宿制の私学校で、後の咸宜園)へ14歳の東庵を入塾させました。文化5年(1808年)のことです。淡窓の生まれた広瀬家も福岡・博多で活躍した大商家(博多屋)でしたので、佐野本家からの願いもあったようです。
 広瀬淡窓は福岡の大学者であった亀井南冥に学んだ当時新進の学者詩人で、その塾「咸宜園」は、全国から武家の子に限らず多くの優秀な学生が来て熱心に学んだことで有名です。その跡は今も日田の豆田にあります。若い東庵はここで勉学にはげみました。先生の淡窓からも勤勉・善良で優秀な学生として大変愛され、その暖かい師弟の関係は、以後約50年、お互いの生涯にわたって続きました。
 東庵という人は幼い頃からよく勉強する人でした。先生にも恵まれ、当時の様々な学問を各地の大先生について熱心に学び、よく吸収して自分のものにしました。それらの学問は東庵の中で一つになり、この甘木の地に根を下ろし、花を開いたのでした。

●各地での学問修行

 日田の淡窓先生からだけではなく、20代の東庵は漢学(儒学・詩)、医学(漢方・西洋医学)、仏教・道教などの様々な学問を、その当時の有名な先生に付いて、熱心に学びました。当時は、今のような総合的な大学はありませんから、学問をする場合は、各地の先生を訪ねて、そこで先生に直接ついて学んだのです。東庵は実に熱心に勉学に精進しましたので、それぞれの先生から大変よい評価を得ました。
 漢詩を広瀬淡窓と同じく福岡の亀井南冥に学んだ秋月の原古処から、漢方医学や仏教・道教などを広島の医学者恵美三伯から、西洋医学を長崎の「鳴滝学舎」でドイツ人学者のシーボルトから学びました。また、日本画(文人画)を豊後竹田の田能村竹田から学びました。

●甘木駅医師頭に

 文政9年(1826年)、各地での修行を終えて32歳になった東庵は、甘木高原町に落ち着き、町医者として開業しました。子供から老人まで、貧しい人に対しても親切に診察し、治療しましたので、名医として皆に慕われました。福岡藩からは「甘木駅医師頭」・「御目見医師」に任ぜられ、毎年福岡城に登城して藩主にあいさつし、甘木に立ち寄った「お殿様」(福岡藩主や秋月藩主)の診察も任されました。

●『梅西舎詩鈔』

 日田の咸宜園での学友達や郷土甘木の文人達だけでなく、原古処の娘の原采蘋(漢詩人)など、各地での学友とは、長年にわたって詩や画を通じた交流が続きました。東庵の詩集「梅西舎詩鈔」には、近郊行楽の紀行詩や季節の詩と共に、人々との楽しそうな交流の様子が伺える詩が残されています。東庵の芸術は、詩・書・画ともに気品に富み、高雅で温和な作者の精神を表現したものとして高く評価されています。

●市川団十郎との歓談

 天保5年(1834年)、東庵は甘木町で興行した七代目市川団十郎(当時の日本一の歌舞伎役者)を庄屋町の宿舎に訪ね、甘木での町人歌舞伎の伝統(今の「盆俄」につながるもの)を語り、後に団十郎に愛用された「三桝かすりの浴衣(大中小の桝の模様のデザインを染めた木綿の浴衣)」を贈りました。団十郎は東庵の人物と話に感銘を受け、翌年の甘木公演を約束し、その約束を果たしました。当時の江戸歌舞伎市川団十郎一座は大変な人気で、博多・長崎での興行の途中に甘木で公演を行ったのです。

●梅西舎

甘木高原町の天神様 甘木のアーケード街を西に抜けて、「中央通り」を南の庄屋町の方へ少し下ると、通りの右手に「佐野東庵先生旧跡」の碑があります。その奥の大きなイチョウの木のそばに、天満宮と薬師堂が仲良く並んで建っています。このあたりが甘木の高原町で、東庵の住まいがあった所です。天満宮の梅の木のすぐ西に建っていたことから「梅西舎」と呼ばれました。そこで東庵は患者を治療し、多くの文人と交流し、弟子達に様々な事を教えたのです。
 昭和33年に建てられた梅西舎碑東庵先生が亡くなって百年経った昭和33年(1958年)に、当時の甘木の人々が先生を偲んで「梅西舎」の碑を建て、その裏に先生の詩を刻みました。その詩にある「菅公祠(学問の神様と言われる菅原道真を祀った祠)」は、この天満宮のことで、詩に、「梅花を隔てた菅公祠に、朝お参りし、夕べに庭を掃く」とあります。町医者として慕われながら学問と芸術を愛した東庵の日常と人柄を語る詩です。
 東庵は安政5年(1858年)に64歳で亡くなりました。明治になる約10年前です。東庵の墓は、その号から「竹原墓」と記されて、大内町の「光照寺」の佐野家墓地の一角に静かに立っています。
 東庵の息子「佐野文洞」も日田の広瀬淡窓の「咸宜園」に学び、親子して先生の代理を務めるほどの漢詩の実力を発揮し、幕末・維新に活躍した多くの秀才を育てました。


【参考文献】
近藤思川・緒方水祭子/佐野東庵先生小伝
近藤思川/郷土詩話
緒方無限/郷土先賢詩画集
佐野東庵/梅西舎詩鈔

(広報あさくら平成19年1月1日号掲載)

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