ふるさと人物誌6  初めての国会議員 「香月 恕経」(かつき じょけい)


ふるさと人物誌ロゴ ◆初めての国会議員 香月恕経 香月恕経翁
  香月恕経は、現在の馬田の下浦の地に縁のある人です。もともと医者ですが、後年には教育者として、又政治家として、当時の郷土を代表する素晴らしい先駆者と言えるのではないでしょうか。



●献身的な恕吉郎少年

恕吉郎少年13歳の書 恕経は、天保13年(1842年)6月、代々医業を引継いできた香月春庵の長男として生まれました。
 幼い頃の名前を恕吉郎と言い、小柄で活発な子どもだったようです。そして11才になってから、甘木高原町に住む佐野東庵の経営する「梅西舎」に入門して漢籍を学ぶことになります。どんなに暑い日であろうと、どんなに厳しい寒さであろうと、恕吉郎は一日も怠けることなく下浦から甘木までおよそ一里の道のりを通い続けました。そして学び始めてから3年目のこと、13才になってから書いた「月露下檣鳥」の詩の書軸は、それはそれは見事なもので居並ぶ人々を驚かせた程の素晴らしい出来栄えでした。このように大人も及ばないほどの学問を身に付けたのも、恕吉郎の日頃の努力のお蔭だといって間違いないでしょう。
 それから間もなく、師匠である東庵の身に異変が起き、長らく床に臥す日々を送らねばならなくなりました。佐野家では、遊学中の息子も急いで帰郷し看病することになりますが、肉親でもない弟子の恕吉郎も一緒になって看病を続けたのでした。それこそ昼夜通して帯も解かず看病すること実に数十日、どうにか師匠は快方に向かうまでになりました。おかげで師匠が元気を取り戻したことを見届けた息子は再び遊学にと去っていきました。
 しかし師匠の身体は、以前の身体には戻らず、その後も身の回りのことはすべて傍にいる恕吉郎に頼る他ありませんでした。三度三度の食事も含め、すべて恕吉郎の手に託され、託された恕吉郎も精一杯その期待に応えようと頑張りました。残念ながら翌年の9月、師匠東庵はついに永遠の眠りについてしまいました。師を失った恕吉郎は一人淋しく下浦の実家へと帰って行きました。

●尽きることなき学問への思い

 そして明けての安政5年2月、恕吉郎は17才となりました。昨年まで学舎で身につけてきた学問への思いは強く、今度は遠く熊本の医師深水玄門を訪ね入門を願い出るため我が家を発ちました。深水玄門といえば当時儒医としての名声高く、遠方からはるばる入門のため訪れてくる者も多く、入門は狭き門でした。
 恕吉郎が門を叩いたその日は、生憎と玄門が留守でしたので、書生から筆紙を借りて訪ねてきたことの意味を書き残しておきました。これが幸いしたのか後刻玄門からの使いのものがやって来て入門を許されたのでした。
 それは恕吉郎が書き残した書の筆跡と文章の素晴らしさを認められたことによるものだと後で分かりました。早速、学ぶ機会を得た恕吉郎は漢方内科医術を身につけることになりました。そして塾に滞在すること約2カ年、やがて恕吉郎はわが郷土へと戻って参りました。
 明けての文久元年(1861年)2月、20才となった恕吉郎は、更に近くの筑後の国生葉郡(浮羽郡)隈上村の玉井養純にも師事して漢学と医学を学びました。ところが翌年の10月になって、父春庵が病気だとの知らせを受け、急いで下浦に帰って来ました。恕吉郎は長い間父の傍にいなかったことから、あらんかぎりの看病を続けましたが、その甲斐も無く父は54才で息を引き取ったのでした。父を失った恕吉郎は再び修学への道を歩むことは許されませんでした。というのも、もともと家の生計も苦しい上に、かねてから病弱の母は落胆と疲労が重なり床につくことが多くなってきたからです。そこで恕吉郎は父の後を継いで正式に医者として身を立てることになりました。21歳の時でした。

●本業の医者から教育者・政治家へ

 さて医者にはなったものの時は明治になったばかり、当時の世情は激しい変りようでした。秋月藩の動きも慌しくなる中、恕吉郎は時代の変化に気付き、政治に対して自分なりの考え方を持つとともに地域にも大きく関心を持つようになりました。
 先ずは明治2年の暮れ、恕吉郎は秋月藩校の訓導に任じられます。寒村の一開業医から藩の学館訓導に取り立てられたことは、当時としては実に名誉なことでした。翌明治3年には郡村教導役兼郡監察となり夜須郡牛木村に勤めました。
 更に明治4年には現在の三輪新町・依井等の開拓係となって、もともと原野であったのを村民と共に開墾に当るなどして行政の道にも一段と関心を持つようになりました。同年7月には廃藩置県となり、秋月藩に代わり「福岡県出張所」という役所が秋月に設置されました。その折にも恕吉郎は役人として嘱望され役に着いたのですが、地元に密着した活躍を次々と展開していくのでした。
 そのうち明治6年(1873年)に名を恕経と改め、明治9年迄のおよそ3年間は「筑前竹槍一揆」や「秋月の乱」等の大きな事件にも関わり牢獄に入れられるなど苦しい経験もしました。とにかく波乱万丈、ここで恕経は一段と政治に対して強い関心を持つようになっていったのです。

●激動の時代を駆け抜けた恕経

 この頃の国内は不穏の空気に充たされていました。当時の政府の動きに対しての不平不満は広がり、農民にも旧武士にも強くくすぶっていたのです。「佐賀の乱」「神風連・秋月の乱」「西南の役」などがその現われと言えましょう。
 こうした事件を経過する中で民衆は武力による反抗の空しさを悟り、言論こそがこれからの政府を動かす大きな力になるとして論客を中心とした政治結社の動きが地方で次々と出て参りました。恕経も明治12年(1879年)当時の夜須郡を中心に同志を募り「集志社」を設立、推されて社長となり大いに民権自由の思想を勧めていったのです。
 又、これをきっかけにして他の同志団体「筑前共愛会」や「玄洋社」との繋がりも密となり、やがて恕経はその中心となって活動するまでになりました。そして明治13年11月、国会期成同盟の集会が東京で開催された時も、恕経は筑前国代表として出席、国会幹事として活動することとなりました。
 又一方で恕経は教育者として明治14年に第二代福岡県立甘木中学校長に任じられ、多くの人材を育てたことも郷土発展に結びつく貴重な業績といえましょう。
 そしておよそ4年間校長を勤めた後は「玄洋社」に正式に迎え入れられ、そこで社員の教養を高める傍ら、自らも国に関与するために必要な力量と人格を磨き、次第に多くの民衆の信望と期待を高めていったのでした。かくて頭山満はじめ親しい仲間の勧めによって明治23年には第1回衆議院議員選挙に立侯補、見事当選しました。更に明治25年第2回の選挙にも当選し大いに国会で熱論を吐いて国政においての存在の大きさを世に知らしめたのです。
 このように大きな期待を寄せられていた恕経ですが、惜しいかな政治家としての道半ば、脳溢血にて東京の自宅において死去したのです。時に明治27年、53歳でした。


【参考文献】
香月春蔵寓/晦処遺稿
田中正志編/香月恕経翁小伝
古賀益城編/あさくら物語
馬田編纂委員会編/郷土史馬田
井口 実編/馬田を語る

(広報あさくら平成19年1月1日号掲載)

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