ふるさと人物誌10 帰省の前に帰省なし、帰省の後に帰省なし 「宮崎 湖処子」(みやざき こしょし)


ふるさと人物誌ロゴ ◆帰省の前に帰省なし、帰省の後に帰省なし 宮崎 湖処子 宮崎古処子
 湖処子の本名は宮崎八百吉と言います。出身地は、福岡藩大老三奈木黒田氏の別邸・播磨屋敷から近い現在の朝倉市三奈木札の辻。宮崎仁平の二男として、文久3年(1863年)9月20日に生まれました。
 湖処子のほかに、愛郷学人などの別号があり、一時は末兼姓を名乗っていました。
 宮崎家は、口碑によれば、秋月城主秋月種実の侍大将・三奈木弥平次の末裔で、農業を営む旧家でした。弟の右夫は詩人で、号を亡洋と言い著書に「貧の朋友」があります。



●青雲の志を抱き上京

 明治5年(1873年)三奈木長野の寺子屋に入ったのは9歳の時です。その後、黒田播磨守の儒臣・岡野孚(加藤孚)に「大学」の素読を学ぶなどその才能は幼児期から秀でていました。11歳の時に岡野宅に開設された三奈木小学校に入学するや、義太夫本なかでも心中物を愛読し「絵本太閤真顕記」に功名心を抱く日々を送っています。
 西南戦争の明治10年(1877年)三奈木小学校を卒業し、その年の秋に丁丑義塾に入り漢籍を学びます。読書欲はますます強くなり「日本外史」「十八史略」を好んで読みました。
 明治11年(1878年)15歳の4月、開設されたばかりの県立福岡中学校に入学し、寄宿舎生活を送ります。そして入学当初に、福岡中島町の講義所で耶蘇教(キリスト教)の伝道師を初めて見ています。
 中学では、小学校以来の文章の嗜好がさらに強まり「古文真宝後集」を筆写し、文章家として知られるようになります。
 父は、湖処子を東京の陸軍教導団に入れる意向でしたが考えがかわり、その出願免除のため、高木佐田安谷の母の実家に寄宿させ、佐田小学校の教師を務めさせました。
 佐田安谷にいた一年間も「八大家読本」の中の「柳州記文」を愛読したり、肥前英彦山街道の道筋でもある佐田の自然美に傾倒したり、愛郷心を養う期間にもなっています。
 明治13年(1880年)春、再び県立福岡中学校へ復学し、翌年卒業するも適当な職がないため郷里三奈木で農業に従事しながら陶淵明の「田園雑誌」を愛読し、田園詩人と自任します。
 その後、屋形原小学校、山田小学校に奉職しますが、明治17年(1884年)4月、山田小学校を退職します。
 当時『東京横浜毎日新聞』の政治論に傾倒し、また、ギゾーの「文明史」等を読んでいました。後年発表する「半生の懺悔」によれば「文章などただ『末技』にすぎぬ。当今の時勢国家を経営し一身の功名をなさんとするには、是非とも政治家、但は代議士、但はギゾー氏のような政治学者とならねばならぬと思いこんだ」と記しているように、政治に関わることを志として上京します。

●近代詩の先駆けをなした湖処子

 上京後7月に東京専門学校政治科(現早稲田大学)に入学、明治20年(1887年)7月に卒業。その後半年程帝国大学の専科に在学し、この期間にキリスト教の洗礼を受けています。
 明治21年(1888年)湖処子をとりまく環境は厳しく、精神的経済的危機にあり、その救いを求めて、英語教師兼家庭教師として下総流山(現千葉県流山市)の豪家秋元三左衛門宅に身を寄せ、田舎の自然に慰められたり、住み込んだ家の暖かい人情に接したり、都会生活で疲れた心から解放されました。
 同年8月に父仁平の死去を知りますが、帰郷せず再び上京し、東京経済雑誌社に入ります。「国民之友及び日本人」を東京経済雑誌に連載し、それを増補して集成社より刊行、徳富蘇峰に認められました。
 明治22年(1889年)初めて湖処子の筆名を使い「故郷」を『国民之友』に連載。以後は抒情的な散文、新体詩をさかんに発表しています。
 我国の近代詩が、明治15年(1882年)の「新体詩抄」の翻訳詩からはじまり藤村の「若菜集」によって真の抒情詩が完成したと考えるとき、その土壌を用意した明治20年代において、最も多作で、質の高い抒情詩を生み出したのは湖処子であると指摘している評論家がいることも頷けます。
 それ故に、近代詩の先駆けをなしたのは湖処子と言えます。

●名著「帰省」の誕生

 「帰省の前に帰省なし、帰省の後に帰省なし」とまで言われ、多くの若者の心を掴み、当時のベストセラーになった「帰省」誕生の経緯を略述します。
 父の死にも帰省しなかった湖処子は、父の一周忌に、兄の強い催促で帰省します。帰省にあたって一抹の不安が脳裏を掠めます。というのも、上京する時政治家になることが夢でしたが、今の自分を直視するとき、果たして家族をはじめ親戚知人は暖かく迎えてくれるであろうかという心配があったに違いありません。
 しかし、帰省してみると、不安とは裏腹に人情と平和のすめる故郷がありました。都会とは別世界の田園の理想像桃源郷の故郷の存在、母の実家佐田安谷の美しい自然もそのまま、後の湖処子夫人となる女性の優しいもてなし、6年ぶりの帰郷は、湖処子の心に故郷礼讃を育みました。これがきっかけで翌年明治23年(1890年)6月「帰省」として民友社より刊行され、故郷を賛美する田園文学の最高峰として絶賛をあびるのです。

●文学から宗教へ

おもひ子の碑 評論家として出発した湖処子は、明治23年以降は詩人、小説家と活躍します。特に作品「人寰」は、少年少女の愛を描き、終末は少女の井戸に身を投げるという悲劇、そのため少年は出家するという内容ですが、樋口一葉の「たけくらべ」と並べられるほどの秀作との評価もあります。また「空家」「生死」「田代坂より故郷を見下してよめる長歌」の反戦作品は、平和主義者としての一面を物語っています。
 さらに紀行文の先駆者でもあった湖処子ですが、民友社で共に活躍した国木田独歩などが文学史上に名を残したのに、湖処子はそれ程評価されていない理由はなぜでしょうか。
 二つの理由があると言われています。ひとつは独歩をはじめ当時の作家たちが代表作を次々に刊行したのに、湖処子は「帰省」を除いて小説の作品集を刊行しなかったため、文壇人や読者の目に触れることなく過ぎたこと。次に民友社を去ると同時に宗教者になったことです。
 しかし、市内にある湖処子文学碑、特に現皇后陛下が皇太子妃時代、湖処子の詩「おもひ子」に曲をつけられた「子守り歌」の文学碑は、永久にその名をとどめることでしょう。
 湖処子の死は、大正11年(1923年)58歳、東京青山霊園に静かに眠っています。

 

  

《おもひ子》
いづれの星かわが庭に
 落ちてわ子とはなりにけむ

ひかる汝が目に見られては
 はれて嬉しくなりぬなり
 

 


【参考資料】
民友社文学全集(一)第5巻 他

(広報あさくら平成19年7月1日号掲載)

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