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ふるさと人物誌15 国境を越えて排水工事に尽力した 「松岡家三代」(まつおかけさんだい)

登録日:2011年03月21日

 
ふるさと人物誌ロゴ ◆国境を越えて排水工事に尽力した 松岡家三代 松岡九一郎肖像
 今回紹介する松岡家三代(九郎次・九平・九一郎)は、江戸後期から明治初期にかけ、当時の国・藩境を越えて川の下にトンネルを掘り排水路を横断させる大工事を行った人で、水害に苦しんでいた朝倉市南西部(蜷城・福田地区等)の排水工事「湿抜普請」に力を尽くし、その改修・改善に大変な功績を挙げた庄屋です。



●時代と環境

 江戸時代、朝倉市は筑前国の福岡藩(黒田藩)領、久留米市や大刀洗町は筑後国の久留米藩(有馬藩)領でした。国も違えば藩も違いますから、その境目で互いの利益が対立することも多く、様々な争いが生じました。川の流れが強く当たらないよう、川岸に杭を打ったり竹藪を作ったりすると、こちら側が受け流した流れは反対側に強く当たるため調整は難しく、鮎などの漁業権も利害が対立しました。

●床島用水の建設と下座郡の湿地化

蜷城・福田地区など筑前国「下座郡」と筑後国久留米藩の境は、筑後川の北側にあり、桂川・佐田川・小石原川は、国境を越えて筑後川に流れ込みます。
 筑後久留米有馬藩は正徳2年(1712年)、筑後川本流に「恵利井堰」と「床島井堰」を築造し、「床島用水」を引いて三井・御原郡約1500ヘクタールの灌漑を行いました。
 このことで、下座郡は川尻を塞がれてしまい、蜷城・福田地区では水が滞って稲作・畑作に大変な被害が生じました。裏作の麦も大豆も菜種も生育せず、大雨で洪水になると水が引かないのです。湿田では牛馬で耕すことも、稲の刈り干しもできません。村人は蓮根を作り、福岡藩も免税など様々な対応をしましたが、国境を越えた排水工事を実施するまでには至りませんでした。

●長田村庄屋・松岡九郎次(安貞)

松岡九郎次肖像 江戸時代は、集落ごとに庄屋といわれた村役人が藩から任命されていました。地元の名望家(財産・人望がある人)が任命され、多くは世襲でした。庄屋の役割は、年貢の取り立て、村人の生活の管理、藩命の伝達、藩への調査報告など村の行政一般を行いました。
 松岡九郎次は、寛政12年(1800年)に長田村の庄屋に任命され、また、筑後川に関する水問題の交渉役「三庄屋」を命ぜられました。「恵利井堰」「床島用水」の築造から100年を経過しても、長田村を含む下座郡蜷城・福田から筑後三井郡本郷・千原一帯の数十カ村の湿地状況は変わらず、毎年水害が起こり、作物も十分に生育しない状態が続いていました。
 九郎次は、上座郡菱野村(旧朝倉町)の庄屋・大内弥平義延と協力して、この長年にわたる湿害を一挙に解消するための排水工事の実施を福岡藩役人に進言し、許可を得ます。国境・藩境を越えて、同じ被害にあっている村々の庄屋と何度も話し合い、辛抱強い交渉の末に久留米藩側の同意を取り付けました。
 それは、福岡藩が久留米藩領も含めて排水溝工事を行って湿害を除く一方、福岡藩が筑後川の護岸のために作った上座郡原鶴の竹林と下座郡長田の柳乱杭を除去するというものでした。こうして工事の実施にこぎつけたのです。

●文政8年の大工事

第1暗渠 文政8年(1825年)2月~10月、桂川右岸の下長田に鉄製水門付き「第一暗渠(トンネル)」を作って西へ水路を引き、次に久留米藩領床島村で佐田川の下に「第二暗渠」を掘って横断後、佐田川に平行して流し、更に西流する床島用水に「第三暗渠」を設け、潜って筑後川本流へ水を流し込むという、全長約2キロメートルの大排水路「長田川」掘削工事を実施したのです。
 同年1月~4月、下座郡福田村と三井郡大堰村の一部約200ヘクタールの湿害を除くため、小石原川の支流「二又川」を、床島用水の下を暗渠で潜らせて下流に流し、西原村で小石原川に合流させる工事を行いました。全体で約5キロメートルに及ぶ水路掘削・暗渠工事でした。
 また、交換条件の上座郡志波原鶴の竹藪と下座郡長田の柳乱杭の除去作業も誠実に行いました。
 これらの事業は、明治・大正・昭和の改修を経て、平成になってようやく完成した大事業で、当時としては技術的にも大変な難工事でした。事業の経緯は、今は逆に床島用水が二又川を潜る左岸(大刀洗町徳次)の「二又川改修記念碑」に記されています。
 「長田川」「二又川」の二大排水工事によって、下座郡南部と三井郡東部の百数十年にわたる湿害の苦しみはほぼ解消し、肥沃な耕地に豊かな農作物が生育できる環境ができたのでした。
 文政9年(1826年)に現地を視察した福岡藩主黒田斉清は、この工事を成し遂げた功を賞し、九郎次を士分(武士)に入れようとしましたが、彼はそれを固辞して受けず、代々三人分の俸米を賜り、苗字帯刀(姓を名乗り、刀を持つこと)を許されました。九郎次は天保13年(1842年)、66歳で亡くなりました。

●松岡九平(保直)

松岡九平肖像 九平は九郎次の子で、父の後を継いで長田村の庄屋となりました。人柄は質朴で才知に優れ、思いやりのある人でした。職を奉じて村民のために尽くし、村民をまとめて度々の洪水に対処し、地域の水利を守りました。
 「長田川」も被害が出れば修理が必要になります。筑前福岡藩領の改修はできても、筑後久留米藩領での工事は思うようになりません。筑後久留米藩領の床島で佐田川の底を西に横断する「第二暗渠」に砂石が詰まり水が吐けなくなったことから、両国を何度も往復し約10年地道な交渉を続け、文久元年(1861年)12月、排水溝修理の工事を完成させました。藩主黒田長溥はその労を賞して俸米を与えました。九平は慶応3年(1867年)、59歳で亡くなりました。

●松岡九一郎(保家)

 九一郎は、娘婿として松岡家に入り、九平の後を継ぎ長田村の庄屋となりました。この人も「長田川」の維持・改修に力を尽くしました。
 特に、佐田川を潜る「第二暗渠」改修の際、父・九平は暗渠を短くした方が水吐けが良くなると考えますが相手に聞き入れられず、長い暗渠にしたところ数年で砂石が詰まり、暗渠を短くしなかったことを後悔していたことから、明治の改修で短く幅の広い暗渠にする工事を実現したのでした。
松岡三代墓 この工事も事前交渉が大変でした。何しろ明治4年(1871年)の廃藩置県で福岡藩も久留米藩もなくなり、福岡藩は「福岡県」に、相手の三井郡は一時「三潴県」になったため、調整は困難を極めました。しかし苦労を重ねた末、明治5年(1872年)父の遺志を実現しました。また、長田川堤防に筑後川への水抜きの自動開閉水門を設け、排水を強化しました。
 明治8年(1875年)、県から松岡家三代の功績を賞する賞金を受け、明治15年(1882年)には、長田村民が下長田の堤防に、松岡三代の功績と工事の事跡を記念して大きな石碑「鑿渠碑」を建てました。この碑は今も、その後新しく作られた「床島用水」の魚道や「新桂川水門」を見守るように立っています。
 明治16年、九一郎は54歳で亡くなりました。松岡家三代の墓は、八重津の松岡家墓所に並んで立っています。治水に功あった人にふさわしく、墓石は大きな丸い川石で、法名、卒年、墓誌が記されています。


【参考資料】 福岡県史資料/福岡藩民政史略 福岡県碑誌(筑前之部) 松岡家資料
甘木市資料/下座郡湿抜二筋普請留書 村誌「ひなしろ」 朝倉郡史資料
古賀益城著/朝倉物語

 (広報あさくら平成20年4月1日号掲載)

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