ふるさと人物誌16 福岡藩第一の筑前商人 「佐野半平、弥平父子」(さのはんぺい、やへい おやこ)

ふるさと人物誌ロゴ ◆福岡藩第一の筑前商人 佐野半平、弥平父子 佐野半平
 郷土朝倉地方(旧福岡・秋月藩領。甘木町は福岡藩領)の産業・経済において、活躍した人物に佐野半平と長男弥平がいます。江戸時代中ごろから筑前国朝倉地方の特産物にまで発展した産物に木蝋(櫨蝋・蝋燭の原料)がありますが、その木蝋業の代表的商人になった人物が佐野父子でありました。今回、朝倉経済の代表となった半平、弥平の商人としての生き方、経済活動について紹介していきます。



●半平の生い立ち

 半平は寛政9年(1797年)、佐野家の6代目として甘木高原町に生まれました。代々小規模な商家であったと思われますが、木蝋が朝倉地方の特産物になっていく中で、木蝋問屋、質屋業を営みました。当家の屋号は佐野屋といい、商標は「佐野屋商標「山さ」」を使用しました。半平の妻は、甘木庄屋町の白水休助の娘でした。
 
●朝倉の特産物木蝋と佐野屋

堀川のハゼ 筑前国では、享保15年(1730年)に那珂郡山田村庄屋・高橋善蔵が肥前国に櫨樹栽培の研究に出かけたのが最初でした。善蔵のまとめた「窮民夜光之珠」は北部九州の櫨樹栽培の技術書として普及しました。農民らの希望は、副業としての期待が櫨蝋にあったのです。宝暦元年(1751年)、藩は上座郡(朝倉郡の前身)内の櫨畑に櫨樹を植えさせて栽培普及にあたりました。そして寛政8年(1796年)、藩は御国中櫨実蝋御仕組を実施し、博多、植木、甘木に蝋座(藩営専売所)を設置させました。蝋座に集まった蝋は、大阪や江戸に売り払われました。甘木が蝋座になったことでも、当地方の櫨蝋生産が高かったことを物語っていますが、盛況なことは甘木町の蝋屋数が25軒を数えるほどになっていることでした。やがて、佐野屋は木蝋問屋の代表として活躍しました。

●福岡藩の莫大な借金解消のため生蝋御仕組の業務担当

 藩は、藩政の改革と財政建て直しを計りますが、その一つに特産物櫨蝋の一手買占め、販売がありました。嘉永2年(1849年)から藩の生蝋御仕組を指導したのは、天領日田の富商広瀬久兵衛でした。安政4年(1857年)になると、広瀬は総支配人になり、藩領の有力商人博多の瀬戸惣右衛門と甘木の佐野半平の両人に領内の櫨・蝋買占め業務を担当させ、藩独占の販売が改めて実施されました。瀬戸、佐野とも広瀬に信用された商人でした。
 半平は、藩内の窮乏を救うため、藩に対し金1万4千両の献金をしたことが、記録されています。「奇特者佐野半平、褒美として永代70人扶持(扶持米)を給い、年始の礼を給う」とありますが、この献金は藩内随一の献金だったことがうかがえます。また、秋月藩からも相当の待遇を受けたと伝えられています。
 安政2年(1855年)の記録では、「甘木の家々に限らず大庄屋等を勤めた面々、いずれも衰退し、(中略)半平は質素の人で粟畠にも出かける心掛けで次第に資金を殖やしていきました。忰代にその教えは引き継がれ、家は取り続いた」と記録されています。
 半平は、慶応2年に藩の御用達方、翌3年に夜須郡(朝倉郡の前身)甘木村大庄屋格、明治2年3月に財政顧問たる御銀用受持に就任、地元地域は勿論、藩の財政建て直しのために奔走したのです。半平は、その後佐野屋の大阪進出を見届け、明治9年80歳で亡くなりました。

●弥平の生い立ち

佐野弥平 弥平は、文政9年(1826年)、甘木高原町に半平の長男として生まれました。妻は野見山信といいます。弥平は、半平の教育のもとに成長し、一族の佐野東庵の影響を受けたといわれています。苦労して医師になった東庵は、天領日田の広瀬淡窓の咸宜園で学びました。後年、木蝋の商いで関係する広瀬久兵衛は淡窓の弟に当たる人です。半平と弥平は、東庵の生き方に強い影響を受けたと伝えられていますが、弥平は、東庵のもと勤王志士(高杉晋作、真木和泉、伊藤博文等)を高原町薬師堂にて支援したと伝えられています。のち弥平は、藩から咎めを受け、数年間謹慎したといわれています。

●佐野屋の大阪進出

 明治5年、佐野屋こと佐野商会は旧福岡藩との関係を兼ねて、福岡藩の蔵屋敷(大阪中の島三丁目)を使用しました。この大阪支店には、貯蔵倉庫、生蝋問屋、醤油西店がありました。なお、弥平の弟・半五郎は、大阪高麗橋に佐野屋出店を出し、博屋輸兵衛と名乗り、生白蝋(蝋製品には二種類あり、生蝋は櫨実から蝋を採った製品をいい、白蝋とは蝋を天日で干して白くした製品のことをいう)、米穀の商いを行いました。その後、佐野屋の商取引(蝋・米・染物・薬等)を甘木商人(佐野一門、緒方、具嶋、藤井、平井、高山、上野、相川等)とともに行いました。
 弥平は、大阪に佐野屋組の消防団組織を結成し、長堀川に佐野屋橋を架けました。弥平は父・半平同様に社会貢献を進んで行いました。

●福岡銀行の前身国立十七銀行への参加

 秋月の乱の翌年、明治10年(1877年)、弥平は国立十七銀行の初代頭取に就任します。旧福岡藩黒田家・三奈木黒田家、旧福岡藩士、筑前商人らの期待が、国立十七銀行の創設でした。弥平は、同14年まで取締役として働きました。

●海運業・運送業への挑戦と、蒸気船「寛永丸」の購入

 佐野屋は藩政時代に蒸気船を購入したと伝えられていますが、記録では明治6年以降、福岡県に払い下げの申請をして、寛永丸(通称)を所有したことがわかります。貨物運送では、福岡の村上義太郎と共同で商いを行っています。しかし、残念なことは佐野屋所有船の沈没の影響からか明治15年に佐野屋の経営が見直され、大阪店も閉鎖することになったのです。
 弥平の大経営者としての夢は打ち砕かれましたが、父・半平から受け継がれた気風は、朝倉経済を代表しただけでなく、福岡、大阪までも佐野屋の商人としての生き方を示せたと思えます。明治23年(1890年)、熱心な仏信者弥平は、65歳の生涯を閉じたのであります。お墓は、父・半平と同じ甘木光照寺に葬られました。


【参考資料】 朝倉郡郷土人物誌 筑紫遺愛集
肥筑豊州志 甘木市史資料
佐野家文書

(広報あさくら平成20年4月1日号掲載)

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