ふるさと人物誌17 秋月藩初代藩主 「黒田 長興」(くろだ ながおき) 


ふるさと人物誌ロゴ ◆秋月藩初代藩主 黒田長興
 黒田家秋月藩は、黒田家52万石福岡藩から分知した支藩です。知行高5万石の小藩ながら質実剛健の気質を持ち、武芸や学問に優れた藩風を誇りとして、247年間安泰を保ち、明治2年の版籍奉還まで存続しました。この秋月藩の礎を築いたのが初代藩主・黒田長興です。



●秋月5万石の分知

 福岡藩を興した黒田長政はその死に際して、三男の長興に5万石を分知するよう遺言しました。この遺言に基づき元和9年(1623年)8月、福岡藩を継いだ兄・忠之から長興に、秋月で5万石の分知目録および2人の付家老と47人の付属する家臣(御付衆)の名簿が渡され、ここに長興を藩主とする秋月藩が誕生しました。長興が14歳のときでした。
 長興は慶長15年(1610年)生まれで、母・永子は徳川家康の養女(親戚の保科正直の娘)です。幼名を犬万といいましたが、少年期から聡明で、父の長政は何かと不行跡の多い長男・忠之よりも三男・長興に世継ぎの期待をかけていたともいわれています。長興は13歳のとき、祖父・官兵衛孝高(如水)の名をもらって勘解由孝政を名乗り、23歳で長興と改めました。
 長興は寛永元年(1624年)7月に秋月に入り、梅園(現在の秋月中学校)にあった古い屋敷に普請を加えて居城(御館)としました。城下町の縄張り(都市設計)が行われ、武家屋敷や町家の建築が進みました。当時の槌音高い秋月町の賑わいが想像されます。

●秋月藩創立の苦労

長興が大名として認められ秋月藩が公認されるためには、江戸に出て将軍に拝謁し、所領安堵の御朱印を拝領することが必要です。そのため秋月では家老の堀平右衛門たちが長興の江戸参府を計画しました。ところが、福岡本藩から長興の江戸参府を禁止する命令が届きます。これは兄・忠之が弟・長興を家来として処遇し、秋月の5万石は福岡藩領内の一部であると解釈するもので、秋月側としては承服できないことでした。
 長興は、この命令を拒否して江戸参府を強行しました。福岡藩の監視の目をかすめて、僅か十数人の供回りで密かに秋月を出立し、夜陰に小さな漁師船で関門海峡を渡るなどの苦労を重ねて江戸に到着しました。寛永3年(1626年)正月に、長興は三代将軍・徳川家光と前将軍・秀忠への拝謁が許され、同年8月には朝廷から甲斐守に叙任されて正式に大名に列座することができました。
 このあと長興は、江戸に滞在して将軍上洛のお供をしたり江戸城警備や幕府普請の手伝いなどをして将軍家への忠勤に励み、ようやく寛永11年(1634年)に秋月領5万石の朱印状を賜ることができました。孝政から長興と改名したのもこのころで、黒田長政血縁の新しい藩を立派に興そうとする決意がくみとれます。

●藩政の基礎固め

 このころ国元の秋月では、城下町の建設が進み。併せて新しい家来の雇い入れが行われ、藩の行政組織や藩士の役割編制がなされました。ちなみに長興時代の家臣の数は(詳細にはわからないものの)、馬廻・無足・組外等の上士身分の者が100人、徒士・郡方・目付等の下士身分の者が150人、足軽身分の者が300人くらいであったと考えられます。
 このような藩の仕組みを整える過程で、その仕事の中心にあったのが上席家老の堀平右衛門(知行5000石)ですが、次第に彼の独断専横が目立つようになり、家臣の中に不満の声が出てきました。このことで藩主・長興から厳しく叱責された堀平右衛門は秋月藩を退去してしまいました。同時に堀一派の十数人も集団で脱藩し、藩内に大きな動揺が起こりました。しかし、長興は19歳の若年ながら沈着冷静に対処してこの混乱を見事に収拾し、家臣領民の信望を集め藩政の基礎を固めていきました。

●島原の乱に出陣

 寛永14年(1637年)10月、島原の乱が起こりました。天草四郎を総大将に奉じた一揆3万人余が島原半島の原城に立て籠もって、領主の過酷な重税とキリシタン弾圧に抵抗して反乱を起こしたのです。この乱の鎮圧に幕府は、九州の諸大名に号令して12万人もの大軍を動員しました。
 寛永15年(1638年)1月、幕府の命令を受けた黒田長興は、約2000人の兵を率いて島原に出陣しました。同年2月末の原城総攻撃のときに秋月勢は奮戦しましたが、このときの長興の泰然とした大将ぶりと的確な采配は、家臣たちに勇気と安心を与えました。
 この乱は激しい戦闘の末に鎮圧されましたが、秋月勢は戦死者35人と負傷者345人を出しました。秋月に帰陣後、戦死者の葬儀を盛大に執り行い、遺族や負傷者への見舞いを懇篤にしました。また、各人の働きに応じた褒賞が適切公平であったので藩主・長興に対する家臣たちの敬愛は絶対的なものになりました。

●長興の領内統治

 秋月藩5万石の所領は、夜須、下座、嘉麻の3郡内の55カ村ですが、山間地が多く含まれていて農業生産力が低く、また、商業の盛んな甘木町は秋月領から外されていたので、藩の財政は当初から多くの困難を抱えていました。しかし、長興が家老などに与えた文書には、「百姓ヲ憐ミ」とか「百姓ニ痛カラザルヨウニ」とかの文言があって、藩財政を支える農民に対して無理な年貢や労役を課さないように戒めています。
 長興時代の事業で主なものとしては、原地蔵(筑前町)の新田開発や、小石原川と野鳥川が合流する女男石の護岸工事等があります。また、山間地を家臣に分け与えて植林育成させることも行いました。新八丁峠道を開削したり、野町(筑前町)に宿駅を創設したりするなど秋月街道の整備にも努めています。
 長興の日々の暮らしは、質素倹約を率先すると共に武芸や学問に励んだと伝えられています。秋月藩の質実剛健で尚武の気風は、初代藩主・長興のときから始まったと言えましょう。
 長興は、父・長政の菩提寺として古心寺を、母の菩提寺として大凉寺を建立するなど数々の業績を残し、寛文5年(1665年)3月、江戸の藩邸で亡くなりました。享年56歳、藩主在位42年でした。遺髪が秋月の古心寺に葬られ、また、死後200年経った安政6年(1859年)に垂裕明神の神号を贈られて、今も垂裕神社に祭られています。
 秋月藩は世継ぎの長重(当時7歳)が襲封し、その後も長興の子孫が代々藩主の座を受け継いで、第12代藩主・長徳のときに明治維新を迎えました。

【参考資料】
甘木市史・上巻
甘木市史資料編/秋城御年譜
三浦末雄著/物語秋月史・中巻

 (広報あさくら平成20年7月1日号掲載)

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