ふるさと人物誌18 黒田52万石を救った 「栗山 大膳」(くりやま だいぜん) 

ふるさと人物誌ロゴ ◆黒田52万石を救った  栗山大膳
 杷木志波の西側に標高300mほどの麻良山があり、麻氐良山頂そばに左右良城跡が今も残っています。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで活躍した黒田長政はその功績で豊前中津12万石(大分県)から52万石に加増され、筑前の国に入ります。黒田家の筆頭家老であった栗山備後守利安(大膳の父)は、杷木志波の左右良城主として志波以東の領地を与えられ、30年ほど栗山利安・大膳親子の治世が続きました。



●黒田藩のこと

 黒田長政は名島城に入りますが土地が狭かったこともあり、新たに福岡城を築き、城下町に福岡と名づけました。徳川家康は、長政こそ「家康を天下人に押し上げた最大の功労者」と称し、「黒田家子々孫々まで粗略にしない」旨の感状を与えています。また、長政は家康の養女(姪)を正室として迎え、徳川家とは縁戚関係となっていました。
 しかし、徳川家の代も変わり三代将軍家光の時代になるころには、黒田藩をはじめ多くの外様大名が「藩とりつぶし」の恐怖にさらされます。江戸幕府が開かれて50年の間に、200を超える藩がとりつぶされたり、領地を削減されたりしています。
 長政は、幼いときから人質生活で何度も死線を乗り越え戦国時代を勝ち抜いた武将ですが、長政の嫡子・忠之は、幼いころからわがままで短気で問題を起こしていました。贅沢を好み遊興を重ねるわが子に長政は不安を抱き、幾度も廃嫡を考えたようです。この長政の「忠之廃嫡」の動きに、忠之の守役であった栗山大膳が防波堤となって、ことごとく守っています。
 長政は、人望ある筆頭家老の栗山大膳や重臣たちが藩の運営を間違いなく補佐してくれるだろうと後事を託します。
 
●黒田騒動

 世に知られている「黒田騒動」は、元和9年(1623年)長政没後から始まります。
 新藩主になった忠之のわがままは治まらず、家臣をむやみに打ち叩いたり、近臣を集めては毎日酒宴におぼれ、剛健・質素の家風は忘れられていきます。大膳をはじめ藩の重臣たちが忠之に何度諫言してもとりあってもらえず、藩政は険悪な状況になっていきました。忠之は、幕府が最も嫌う軍船を建造し幕府のとがめを受けます。大膳などの謝罪で事なきを得ましたが、忠之の乱行は治まりません。
 忠之は、領主になる前から小姓として仕えていた倉八十太夫をかわいがり、食禄は加増を重ね9000石にまで取り立てています。さらに、重臣のだれにも相談なしに十太夫を家老にし、十太夫の権威は藩随一になります。忠之のわがままは益々ひどくなり、藩の乱れは承知しながらも藩の重臣たちも口をつぐみます。諫言をなすのは大膳のみとなり、諫言してもしりぞけられ続けました。
 忠之は、独断で新規に足軽200人を抱え、一銃隊を編成して十太夫につけます。この時代、大名が城郭を補強・修理したり士卒を雇い入れたりすることは禁止されていて、幕府による藩取り潰しの口実にされかねない出来事です。大膳は、若輩の十太夫に頭をさげ、諫言書を藩主忠之に届けるよう依頼します。十太夫はこれを握りつぶし、大膳の悪口を言いつけて忠之をたきつけます。こうして忠之と大膳の間には修復できない亀裂が生じてしまいます。忠之は大膳の殺害を口にしますが、大膳は職を退いて杷木志波の邸に帰り、藩をつぶすことなくこの急場を乗り切る方法を考えていました。
 寛永9年(1632年)6月、大膳は九州大名の総目付け日田代官・竹中采女正に「藩主に反逆の企てあり」との訴状を差し出します。これは、裁きの庭で長政と家康の関係を幕府高官に再確認させることが目的で、自身は「主に対する反逆の罪」に問われることを覚悟しての行動でした。
 思惑どおり寛永10年(1633年)3月、大膳は裁きの庭で諸老中を前に「御老中の御威光による御意見をいただく以外には、主・忠之をして神君・家康公の御厚志を守り通さす方法見当たらず公訴の手段をとりました。家康公の御意思をふみにじってはなりません」と釘をさしています。大膳の命をかけた訴えによって、次のような幕府の評定が出されました。
 「治世不行き届きにつき、筑前の領地は召し上げる。ただし、父・長政の忠勤戦功に対し特別に旧領をそのまま与える。」「大膳は主君を直訴した罪で奥州盛岡に配流。150人扶持を生涯与える。」
 こうして黒田藩はとりつぶしを免れ、その後忠之は島原の乱や長崎警護の任で活躍し、城下町の賑わいのために尽力しています。大膳は、盛岡で罪人あつかいされることなく、62歳で生涯を終えました。お墓は岩手県盛岡市にあります。

●栗山大膳と父・利安の業績

 大膳は、遠賀川流域の洪水調整や灌漑、水運を目的に、遠賀川から洞海湾に通じる堀川の工事を元和7年(1621年)に着工しています。長政の死によって中断しましたが、128年後の宝暦元年(1751年)に再開し、宝暦12年(1762年)に完成しています。灌漑用水として田畑を潤し、物資の輸送路としても活用されました。全長約12.5kmで「大膳堀」と呼ばれています。
 大膳の父・利安が、長政の父・官兵衛孝高(如水)の菩提を弔うため建立したのが杷木志波の「円清寺」で、黒田家ゆかりの品々が文化財として大切に保管されています。
 松末地区の杷木星丸にある「野手八幡宮」の元宮は杷木林田にあり、宇佐八幡の神領で、寛永7年(1630年)に大膳が宇佐八幡宮を勧請したものです。1686年に現在の地に遷宮しています。
 杷木神社に伝わる春の大祭の「杷木市」は農機具の展示・販売の市が起源ですが、大膳は城下町の賑わいのために一時期、杷木志波に移しています。
 国道386号線沿い香山入り口に「大膳楠」があります。昔、この楠木の側に大きな池があり、「大亀が住んでいて旅人を襲うので退治して欲しい」と村人から願いが出されます。一方、別の村人からは「あの亀は村の守り神だから殺さないで」と頼まれます。現場に出向いた大膳は、池中央の岩の上で甲羅干しをしている牛ほどもある大亀が長い首を出しにらみ付けるのを見て、鉄砲で殺してしまいました。とたんに黒雲が一面を覆って激しい雨が降り、地面が揺れて香山の半分が崩れ落ちたため、大膳はほうほうのていで逃げ帰りました。
 そのがけ崩れで、民家も池も埋もれてしまいましたが、楠の木は残りました。地元の人はこの楠を「大膳楠」と呼び、がけ崩れのことを「大膳崩れ」と呼んでいたと、そんな話が伝わっています。

【参考資料】
杷木町史/杷木の昔ばなし

(広報あさくら平成20年7月1日号掲載)

 

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