表示色
文字サイズ変更

ここから本文です。

ふるさと人物誌19 自由民権の闘士 県政から国政へ 「加藤 新次郎」(かとう しんじろう)

登録日:2011年03月21日

ふるさと人物誌ロゴ ◆自由民権の闘士 県政から国政へ   加藤新次郎



●生い立ちと時代背景

 加藤新次郎は、三奈木黒田家の重臣・加藤正偸の次男として、嘉永7年(1854年)に三奈木に生まれました。
 三奈木は、1万6千石を領する福岡藩の大老・三奈木黒田家の領地で、初代黒田一成公から明治維新まで約250余年続く、まれに見る歴史のある土地柄です。
 三奈木黒田家は、日常は福岡で城に勤めて、三奈木には「お茶荘」といわれる別邸がありました。
 幕末の福岡藩には、勤王派(幕府を廃止して、朝廷を中心とする政治構想を掲げるグループ)と佐幕派(幕府を支えるグループ)の2つの勢力があり、勤王派が藩を動かしていました。藩主専制政治の継続を望む藩主は、幕府が藩の勤王派の動きに疑いを持ったことを契機に勤王派を圧迫し、勤王派の中心人物7人に切腹を命ずるなど厳しい処分を行います。これを「乙丑の獄」(1865年)といいます。
 三奈木黒田家は勤王派でしたが、当主・播磨は大老という身分であったため切腹は免れたものの、三奈木に蟄居(自宅や一定の場所に閉じこもり謹慎すること)を命じられます。
 かねてから三奈木黒田家は、長崎出島警護に総督として出向くなど、西洋文化に直接触れる体験を通して外国の事情に詳しく、知識も豊かで先見性が有り、文化的教養(謡曲宝生流等)も身につけた人物です。家臣たちは、蟄居の身である三奈木黒田家に接触する機会が多く、いろいろな面で影響を受けています。
 また、三奈木の家臣たちの中には、三奈木黒田家と一緒に長崎出島の警護にあたった者もあり、世の中の動きを敏感に受け止めながら明治維新を迎えます。
 そのような村の時代背景の中で、新次郎は成長していきます。

●三奈木村の再興は養蚕

 江戸時代の三奈木は、英彦山街道の交通の要として栄えていましたが、幕藩体制の崩壊の後は寒村となり、三奈木村の再興は急務です。
 村の再興は養蚕にありと考えていた安陪庄作は、甥にあたる加藤新次郎、守島正路の若い2人に

「実は君たちにお願いがある。新しい時代を乗り越え、豊かな三奈木にするために産業を起こすことが大事と思っている。自分も長崎出島の警護に行った関係で、外国へ輸出する品物として養蚕を盛んにし、品質の良い繭、生糸を生産することが必要と考えている。自分も各地に行って研究しているが、今までの飼育法では生産も少なく、利益も上がらない。新しい飼育法が熊本にあると聞く。熊本へ行って勉強してきてほしい。」

 話を聞いていた新次郎は、かねてから東京で発刊されている「日新々事誌」を購読し、その養蚕に関する記事に刺激され、自らそれを試みたいという志を抱いていたので、

「わかりました。勉強してきます。」

と即座に快諾し、2人の青年は熊本へ旅立ちます。明治8年(1875年)のことです。
 熊本に着いた2人は、養蚕家として著名な竹崎吉晴氏の家に数カ月寄宿して、清涼育および座繰製糸法の伝習を受けます。
 養蚕技術を身につけて村に帰るや、早速夏蚕を飼い、村の青年男女に講習します。これが福岡県の新式養蚕、座繰製糸の最初です。
 その後、養蚕は三奈木の基幹産業となり、三奈木だけでなく、朝倉郡はもとより福岡県全体に広まっていくのです。
 そして新次郎は、養蚕の育成と並行して自由民権や政治へと志向していくのです。

●自由民権の闘士

 明治6年(1873年)、征韓論争後に参議を辞職し下野(官職を辞めて民間に下ること)した板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平ら8人は、明治7年に愛国公党を結成し、「民選議院」の設立を求める建白書を新政府に提出しました。これが自由民権運動の先駆けをなすものです。
 新次郎は、明治3~4年ごろ蘭学を学ぶため出郷を家人に願い出ますが、許されなかったのです。
 新次郎の向学の意志は強く、家にあった本をことごとく読破し、特に福沢諭吉の「西洋事情」「文明論之概略」に最も啓発されたといわれます。
 加藤家に種々の本があったのは、先に述べたように、三奈木黒田家が長崎出島の警護の責任者として長崎に駐在した時、加藤も三奈木黒田家の重臣として随伴し、数多くの本を持ち帰った故で、それを若き新次郎が読み魂を揺さぶられたのです。特に明治11年(1878年)に刊行された「佛国革命史」は、新次郎の手沢本(繰り返し読んで手のつやの付いた本)で自由民権の思想を確固たるものにするのです。
 その熱意は、理論だけでなく、実行面でも示されています。
 自由民権の説に強く共鳴した新次郎は、郡下の同志と「集議会」を結成し活動します。明治14年(1881年)、板垣退助が九州遊説に来るや、それこそ手弁当で参加していきます。
 そして、新次郎が最も自由民権に傾注したのは、明治22年(1889年)、大隈重信外相が条約改正(不平等条約を改定するに不十分な内容)を進めようとしたとき新次郎は選ばれて東京に行き、天下の同志と共に反対運動をしています。
 条約改正は、玄洋社員来島恒喜が外務省門前で大隈外相を襲って重傷を負わせ、自らは自刃する(刀物で自分の生命を絶つこと)という事件のため行われませんでした。
 この事件に関して新次郎は、そのころ撮った自分の写真の裏に「明治22年、大隈ノ一脚ヲ奪ヒシ時」と自署し、来島の行動に理解を示すなど、自由民権の闘士としての気骨、反骨精神を垣間見ることができます。

●県政から国政へ

 村の再興に尽力し、自由民権運動に力を注いでいた新次郎は、明治15年(1882年)、29歳の若さで福岡県会議員に当選しています。
 その後18年間県会議員の要職を務め、明治29年に副議長となり、明治31年(1898年)には第8代議長に選任され、政治家としての手腕を発揮し、県民の生活安定向上に努めています。
 明治41年には、県立朝倉中学校(現在の県立朝倉高等学校)の創立に尽くすなど、教育の面でも活躍しています。
 明治45年(1912年)、県会議員在任中に得た政治家としての力量を生かすために衆議院議員選挙に立候補して当選し、国政に奔走する日々を送っています。
 なお、衆議院議員を辞職した後は三奈木に帰り、昭和2年から1期4年間村長の職にあり、三奈木村発展のため尽力しています。
 晩年は、政治家・教育家として活躍した長男の新吉氏が満州鉄道や華北交通の要職についていたため満州で生活し、昭和8年(1933年)、大連において病没しています。享年80歳で、三奈木清岩禅寺に静かに眠っています。

【参考資料】三奈木村の生いたち、三奈木村史資料第1巻、福岡銀行社内報「福銀」No60ほか

(広報あさくら平成20年10月1日号掲載)

 

このページを見た方はこんなページも見ています

    このページに関する
    お問い合わせ先

    総務部 人事秘書課
    お問い合わせフォーム

    このページに関するアンケート

    このページは見つけやすかったですか?
    このページの内容はわかりやすかったですか?
    このページは参考になりましたか?