ふるさと人物誌20 花楓日の行く所はなやかに 俳人 「小野 房子」(おの ふさこ) 

ふるさと人物誌ロゴ ◆花楓日の行く所はなやかに  俳人 小野房子
 小野房子は明治31年9月21日、東京府北多摩郡田無町に坂谷伊之助・とく夫妻の次女として生まれました。田無町は武蔵野台地のほぼ中央にあり、江戸時代は青梅街道の宿場町でした。武蔵野の林が広がり富士山がながめられる、美しくのどかな風土に育ちましたが、七歳の時、母・とくが亡くなりました。
 房子は母の実家がある東京市日本橋に移り、祖母の手で武家の娘同様、厳格に育てられました。女学校を卒業後、娘時代の房子の様子は詳しく分かりません。ただ、「神田の本屋街に行けば房子が居る」といわれるほど本が好きでした。後に夫となる小野直世との出会いも本屋らしく、文学談義に話が弾んだのでしょうか。直世は神官の資格を得るため上京し、勉学に励む学生でした。やがて2人に愛が芽生え東京で結婚、長男・英世を授かりました。
 直世は省線や逓信省に勤め、家族の生活を支えていましたが、神職が使命との自覚にめざめ、家族と共に帰郷することにしました。大正12年、関東大震災の直前でした。



●志波宝満宮へ

 直世の実家は朝倉郡志波村宮原(現在の朝倉市杷木志波)で、志波台地が筑後川に洗われ暖地系樹木が繁茂する景勝地です。直世と家族は、無事に志波宝満宮の実家に戻りましたが、父・正雄(宮司)の決定で、親戚先の蜷城村深見家に預けられました。直世夫婦は、同村の美奈宜神社で、宮司家の仕来たりを見習うことになったのです。
 大正13年3月、長男・英世の小学校入学がせまり、直世家族は実家に復して、直世は志波村役場の戸籍係に勤めました。

●「ホトトギス」を愛読

 房子が志波の暮らしに慣れたころ、東京から俳句雑誌「ホトトギス」が送られて来るようになりました。送り主は、俳句好きの弟・鐘三郎でしょうか。東京のころと違って、満足に本を読む機会がない房子は、何度も読み返し、やがて自分でも句を作るようになりました。また、「だれか良き師を」との願望が強くなり、「ホトトギス」に掲載される代表的な俳人の作品に注目する日々が続きました。

●俳句の師・川端茅舎

 房子が俳句の師と心に決めたのは、川端茅舎でした。昭和7年10月、上京して大森区桐里町(現在の大田区)の茅舎邸を訪ねました。初対面の茅舎に、じかに弟子入りの願いはしにくく、「お句に出ている露のお庭を拝見出来ましょうか」と来意を告げたところ、茅舎は丁重に案内し、庭や俳句のことを語ってくれました。
 志波に帰り早速、出来た句を添えて弟子入りを願い出ました。茅舎からは「心よく承知する」との温かい返事が届きました。遠く隔てた師と弟子は手紙の往復で研鑽を積みました。いわば通信教育ですが、茅舎の指導は独特で、房子が提出した句稿には○と●とー線が振られたのみ、添削指導はありません。よく考えて努力しなさいというものでした。「ホトトギス」昭和7年12月号雑詠に、初入選句が載りました。
「たずね来ぬ紫苑の露はいまだしも」

●句誌「鬼打木」の発行

 房子は、少数の友人と「黄心樹」という句誌を出していたらしく、これを母体として昭和12年7月から、茅舎指導のもと房子主宰による句誌「鬼打木」を発行することが決まりました。発行予告を地方新聞等に掲載、また、知人を通して勧誘に努めたところ、予想以上の購読申し込みがあり、房子は大喜びでした。茅舎は初号のでき上がりを「鬼打木は序も雑詠も気持ちよく出来ました。表紙の色も気持ちいいです」と房子への便りでねぎらいました。

●茅舎、朝倉の旅以降

 茅舎は病身を押してでも筑紫路・朝倉への旅に出ようと決意しました。房子や鬼打木会員の句の指導をし、併せて菜殻火を見たいと思ったからです。菜殻火とは、種を採った後の菜殻を田畑で燃す火のことで、戦後まで見られた梅雨前の風物詩でした。昭和14年6月9日、茅舎は博多駅に下車、房子とその句友の上野嘉太櫨、北川葛人、平田四郊の出迎えを受け、甘木駅では緒方無元夫妻や鬼打木会員の盛大な歓迎に感激しました。
 茅舎は同月19日まで宝満宮に滞在。その間、甘木公園での歓迎句会、秋月吟行、太宰府菜殻火吟行など、気を張って成し遂げました。茅舎の菜殻火を詠んだ作品に「筑紫野の菜殻の聖火見に来たり」や「燎原の火か筑紫野の菜殻火か」など一連の秀句があります。帰京の日、茅舎は小野家との別れに際して、「笹粽ほどきほどきて相別れ」と詠み、房子もまた、惜別の思いを次の一句に託しました。
「笹ちまき巻きつゝ思ひはるかなる」
 朝倉の旅前後は小康を保っていた茅舎も、昭和15年1月以降は咳のため呼吸困難になり、喀血、頭痛に苦しみました。房子は3月と5月に師の病気見舞いに上京、翌16年4月にも茅舎邸を訪ね、病が篤いことを悟りました。そして7月17日、茅舎は44歳の生涯を閉じました。同年11月、房子は茅舎の写真を抱いて宮崎市青島に一泊の旅をしました。「この次は青島に」と漏らしていた茅舎の望みをかなえました。
 茅舎句碑の建設は鬼打木会員にも諮っていましたが時局が厳しく、着手しがたい状況にありました。宝満宮境内には「筑紫野の菜殻の聖火見に来たり」の句碑があります。建碑者は房子と弟子の熊本晴穂で、終戦前後密かに建てられたものでしょう。昭和21年11月、高濱虚子はここに立ち、愛弟子・茅舎をしのびました。

●戦後の房子と鬼打木

 戦後の窮乏の時期も、房子は鬼打木句会を続けました。句誌「鬼打木」も孔版(ガリ版)印刷ながら、不定期刊行で発行されています。原紙切りから製本までを、復員したての矢野竹坊と丸山輝生が担当しました。
 昭和27年には杷木町公民館報が発行を開始。房子は編集委員となり俳壇欄を担当するとともに、エッセイや評論も寄稿しました。房子に公民館活動という新境地が開け始めたころです。
 昭和31年8月、房子は伊豆市修善寺に行き、ようやく亡き師・茅舎の墓参りを果しました。
「修善寺のおくれし盆に参りけり」
 房子は昭和33年4月、がんの手術を受けましたが、翌34年1月に再発。6月12日、死去しました。行年62歳でした。
 昭和38年、鬼打木の中堅手島知加之、矢野竹坊、丸山輝生、渡辺紫朗と諸氏が房子の句碑建設を発起。ゆかりの人々の協力を得て、これも宝満宮境内鬼打木の樹の下に建碑されました。
「花楓日の行く所はなやかに」
 もう1つの房子句碑が、房子を師とも姉とも慕った伊藤白蝶の邸内(杷木星丸)に建てられています。
「白きすみれほろりとしたる目に清し」
 昭和58年秋の建立で、除幕の神事は房子の長男・英世が行い、祝詞奏上中あざやかな黄蝶が飛来し去り難く舞っていたと、語り草になりました。白きすみれの句は、俳人房子の人柄をよく伝えています。情にもろく無欲で、かつ、温かい俳人でした。
 昭和59年、次女・池田みちゑは房子の詠んだ2千句から秀句を選び、遺句集「しのび草」(私家版)を編み、亡き母を追慕しました。

 (広報あさくら平成20年10月1日号掲載)

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