ふるさと人物誌22 新聞人、教育者、歌人(雅号比露思) 「花田 大五郎」(はなだ だいごろう) 

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◆新聞人、教育者、歌人(雅号比露思)  花田 大五郎

(編纂委員・後藤正明)

 今回紹介する花田大五郎は、生涯の前半を新聞記者として、後半を教育者として生きた人でした。そして、生涯を通じて研究したものが短歌で、自らを正岡子規没後の門弟と称したほど、ひたすら正岡流短歌の精進のため歌の道を探求した人でした。


●少年期のころ

 花田大五郎は、朝倉郡安川村持丸(現在の朝倉市持丸)の花田武八の二男として明治15年(1882年)3月11日に生まれました。
 花田家は、江戸時代には庄屋役を勤めた家でもありました。大五郎には、兄と姉がいて、兄・勝太郎(武一郎)は実家を継ぐことになりますが、大五郎は体が小さいこともあって両親は大五郎が農業で生計を立てていくことが難しいと心配し、また、学校での成績が大変よかったので教師にしたいと、上級学校に行かせることにしたのでした。
 明治28年4月、大五郎は久留米の県立明善中学校(現在の明善高校)に入学しました。当時は下宿生活、緊急に出かけるときは人力車を利用しました。

●良き師、生涯の先輩・友人との出会い

 明善中学校に入学した大五郎は、学問や人間としての教えを受けた先輩・高橋久太郎(三井郡出身、東京帝国大学生)と出会います。特に彼の導きによって、明治33年9月、熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)に入学。高橋から五高生の誇り、寮生の勤め、将来の希望などを学びました。五高在学中には、小島祐馬(後の京都大学教授)や後藤文夫(後の農林大臣)との出会いもあり、学生時代に出会える友人の尊さを、切磋琢磨して感じた時期でした。
 この間、入学試験のディクテーション(読み上げられた外国語の文章や単語を書き取ること)を夏目漱石先生に受けるなど多くの先生方の刺激を受けます。また、大五郎自らの意思で落第寸前となった五高時代、2人の先生に救われるという経験もしています。卒業は明治36年7月でした。

●京都帝国大学入学とアメリカ遊学

 明治36年9月、大五郎は京都帝国大学(現在の京都大学)入学と同時に1年間休学し、アメリカのサンフランシスコ周辺に遊学しました。ここでアラスカ行きを勧められた大五郎は、移民と同じ生活(皿洗いやカニ缶詰の重労働)を経験しました。また、キリスト教と出会い入信しています。
 京都帝国大学時代に胸を病んで、1年休学しなければならず苦しみます。卒業は持ち越しかというとき、親友・小島祐馬の助言で、その年の卒業試験を突破することができたのでした。

●新聞記者時代

 明治41年(1908年)7月、大五郎は27歳で京都帝国大学法科を卒業し、9月に大阪朝日新聞社経済部に入社します。新聞社では地方の通信部長や論説委員などを務めました。
 先に朝日新聞社に入社していた夏目漱石と同席したとき、長谷川如是閑が大五郎のことを「君が入学試験をした生徒さ」と言って、漱石を苦笑させています。
 大正7年(1918年)、富山県の漁村で起きた米騒動で、大阪朝日の記事に「白虹、日を貫く」の文字を見た寺内内閣は、不敬罪などの罪で朝日新聞社を弾圧しました。その結果、編集局長・鳥居素川、社会部長・長谷川如是閑らとともに通信部長・花田大五郎も抗議のため辞職しました。世にいう「筆禍事件」です。大五郎たちは新聞人として、言論の自由のために戦ったのです。大五郎はその後、大正日日新聞社や読売新聞社にも勤めました。

●教育界への転進

 大正13年(1924年)7月、大五郎43歳のとき、母校である京都帝国大学学生監事務取扱として転職し、次いで学生監、書記官となります。このころ大五郎は、『貧乏物語』で有名だった河上肇教授が瀧川事件で退職する際に、誠意をもって手続きしています。
 その後、大五郎は昭和5年に大阪市立商科大学(現在の大阪市立大学)教授兼学生監、昭和7年に和歌山高等商業学校(現在の和歌山大学)校長、昭和19年に九州経済専門学校(現在の福岡大学)校長、昭和24年に福岡商科大学(同)学長、昭和29年に大分大学学長、昭和33年に別府大学学長を務めます。どの学校でも、自ら実践し身をもって人を教育しました。
 また、学長時代には緒方竹虎(朝日時代の後輩、代議士)から文部大臣就任の要請を受けています。

●「言志四録」その悟り

 大五郎は、人の道について絶えず考え悩みました。中学3年のとき、佐藤一斎の著「言志四録」と出会いますが、その真髄が理解できませんでした。五高時代、その著によって、大五郎は「天に敬する」ということに帰着しました。「常に敬いの心を持するときに、精神が常に引きしまる」という境地でした。

●歌人としての道 (宮中歌会始召人)

 昭和39年(1964年)1月、宮中歌会始の召人に抜擢されます。その時詠んだ歌(召歌「紙」)が「ふるさとの清き流れに今もかも翁はひとり紙漉くらむか」でした。
 大五郎の『比露思』という雅号は、「大」をひろしと読ませ、漱石の小説「草枕」にある「秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾は思ほゆるかも」という万葉の歌からつけたといわれています。「万葉に帰れ」「だれでも生活の声である歌が読めるということ」を伝える大五郎の歌は、日常生活の中から自然に生まれる歌であろうと思われます。
 大正3年(1914年)に「しほさひ」を創刊。大正10年に歌誌「あけび」を創刊し、亡くなるまで主宰しました。生涯で作った歌は数万作にのぼり、著書には「歌集さんげ」「歌に就ての考察」などがあります。
 門人らによって、全国に花田比露思の歌碑が造られ(市内では、安川公民館や秋月城址、古処山9合目など)顕彰され、あけびの歌会は現在も活動を続けています。

●故郷への思い

 大五郎は、早く母を亡くし、青年時代から近畿地方で活躍して、ふるさとから遠く離れたため、望郷の念は人一倍でした。ある門人に「父を古処山、母を安川」と言っているほど、故郷を愛したのです。
 大五郎は、妻・こまき、長女・露子、次女・久子、長男・治と、家族に恵まれました。
 大五郎は、85歳で従三位勲二等を受章しますが、翌昭和42年7月26日、大阪府寝屋川市香里園において、86歳で亡くなりました。

●秋月郷土館
 「花田比露思展」

 平成19年、秋月郷土館で初めて花田比露思展が開催されました。大五郎80歳の記念に贈られた胸像が偶然にも秋月郷土館に入り、兵庫県の大五郎の家族から資料が寄贈されたうえ、実家である持丸の花田家や大五郎ゆかりの人たちの協力で、大五郎を紹介することができたのでした。


【参考資料】
・五高時代の思出
・持丸花田家資料
・あけび花田比露思追悼号

(広報あさくら平成21年2月1日号掲載)

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