ふるさと人物誌28 福岡藩筆頭家老 「三奈木 黒田 一成」(くろだ かずなり) 

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◆福岡藩筆頭家老  三奈木 黒田 一成

(編纂委員・安陪悟)


 


●三奈木 黒田氏の起こり
 戦国時代、織田信長は、当時の常識を破る新しい政策「天下布武」のもと、天下統一を目指していました。しかし、天正6年(1578年)、信長の家臣・荒木村重が離反し、有岡城(兵庫県)にこもって信長と戦うことになりました。
 このとき、豊臣秀吉の使者として、村重に翻意を促すため城へ向かったのが、黒田孝高(官兵衛、号を如水という)です。
 しかし逆に孝高は、城の土牢に幽閉されてしまいました。孝高の監視役を命じられた村重の家臣・加藤重徳は、監視をしているうちに孝高の智才を慕うようになり、二人は心が通じ合うようになりました。孝高は「そなたは私の命の恩人。もし私がこの城から脱出し、再び活躍するときがきたら、そなたの一子を立派な武士として育てたい」と、重徳と約束したのです。
 村重は戦いが不利と見るや、妻子や多くの女房たちを残し、天正7年(1579年)、近臣の数名と密かに城を脱出します。村重の脱出で孝高も城から救出され、孝高は秀吉の軍師として活躍しました。
 戦国時代、約束の反古や裏切りは日常茶飯事でしたが、孝高は約束を守り、重徳の次男を養子に迎え、我が子・長政と同様に養育しました。そして後に、黒田の姓を与えます。
 これが三奈木・黒田氏の始まりで、初代が黒田一成です。


●生い立ちと戦歴
 黒田一成は、元亀2年(1571年)、伊丹村(兵庫県)に加藤重徳の次男として生まれ、幼少のころは玉松と呼ばれていました。9歳のとき、孝高の養子となり、孝高の薫陶を受けて育ち、名も黒田一成(美作、三左衛門)となります。
 天正12年(1584年)、一成が14歳のとき、長政に従い、根来雑賀の僧勢と泉州岸和田(大阪府)で勇戦します。これが一成の初陣でした。
 一成はその後も幾度となく出陣しますが、天正15年(1587年)、秀吉の九州征伐のとき、薩摩と日向耳川の激戦で先陣をなし、高名をあげます。
 文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)の二度の朝鮮出兵のときも、長政に従い、後藤又兵衛とともに勇敢に戦い、「黒田藩に一成あり」といわれるようになりました。
 豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、長政が徳川家康に味方するや、君命を受けて、石田三成派と死闘を繰り広げ、徳川方の勝利の一因をなします。
 その軍功で、長政は筑前52万石の大封領を与えられました。長政は一成の偉功に対し、三奈木を中心とした下座郡(旧甘木市の一部)1万5000石(幕末には1万6000石になった)を与えます。
 その後も、大阪夏の陣・冬の陣に出陣し、今までの武勇をもって、最も若くして黒田二十四騎の一人に加えられました。一成は、その二十四騎の中でも、七人の剛将の一人に選ばれるほどの実力でした。


●最後の出陣、島原の乱
 島原藩の松倉重政・勝家父子二代にわたる藩政は、領民へ苛酷な賦役と重税を課し、また、キリシタン弾圧などを厳しく行いました。このため領民は、寛永14年(1637年)10月、天草四郎時貞を盟主として一揆を起こします。後にこの一揆は「島原の乱」と呼ばれるようになりました。
 幕府は、板倉重昌を大将にして九州地方の諸大名を中心に3回の総攻撃を行いましたが、失敗して重昌は戦死します。
 ことの重大さに驚いた幕府は、松平信綱を急いで派遣し鎮圧に努めますが、なかなか終結しません。
 信綱は、軍議を開き、各大名の意見を聞きました。そのとき、大名格で軍議に加わることを許されていた一成は、度重なる戦いの体験を踏まえて「兵糧攻めが最善の策」と進言します。
 信綱は、この策を取り入れる一方で、やぐらを組み、地下道を掘るとともに、海上から軍船の砲撃を行いました。
 領民たちは、原城に88日間こもって戦っていました。しかし、ついに食料・弾薬とも尽き果て、寛永15年(1638年)2月28日、幕府軍の総攻撃を受け、天草四郎時貞をはじめ約3万7000人の領民が戦死しました。子どもや女性、お年寄りもすべて殺され、戦いが終結します。
 福岡藩は先陣に立ち、一成も家臣団を引き連れ壮烈な戦いを繰り広げました。この戦いで、家臣団から4人の戦死者を出しました。
 後に歴史家は、島原の乱のことを「苛酷に始まり、迫害に終わった」といっています。


●業績と教訓
 一成は、知行領地の神社仏閣の建立に力を注ぎました。元和年間(1615年~1623年)、知行地の交通の中枢である三奈木の小高い茶臼山(元山城跡)に、清岩禅寺を建て禅宗の教えを広めています。
 また、寛永4年(1627年)、兵火にかかり、社殿、家宝などすべて焼失した春日神社(現在の春日市にあり、一成の飛び地)の復興を、藩主長政から命じられ、見事に再建しています。
 秋月氏時代は、神職、社僧36人を有し、村民の心のよりどころであった美奈宜神社は、秀吉の九州征伐のとき、ことごとく破壊され、数十年間、放置されていました。
 一成はこれを嘆き、寛永16年(1639年)に再建し、記念に銀杏を植えたのです。銀杏は現在、大樹となり、神木として、夏は緑、秋は黄葉となり、歴史を秘めて美しい景色を醸しだし、三奈木のシンボルになっています。
 人材確保の面から見逃すことができないことがあります。長政から蜷城、田島(現在の金川)に2000石の知行を与えられていた新免伊賀守(家臣に宮本武蔵の父で、槍術の達人・宮本無二之丞がいる)が、故あって家禄を召し上げられ細川藩に頼ろうとしました。このとき一成は、その才能を惜しみ客分として招き、その後、新免家は家臣として幕末まで一成に仕えました。
 武術にも力を入れました。嫡子・一任を通して帝釈寺(荷原)走下に鉄砲隊を組織し、隊員には夢想権之助が創始した「神道夢想流杖術(藩外不出の御留武術)」を会得させ、強力な武士集団を組織し、いざ事あるときに備えています。

 三奈木黒田家は、初代黒田一成から福岡藩の筆頭家老(後に大老となる)として、幕末まで約260余年間続きました。その理由は、黒田宗家孝高が加藤重徳に命を救われたことはもちろん、美奈宜神社の山門にかかる額「至誠」に、三奈木黒田家の精神を読み取ることができます。
 武将としてその名を歴史に刻み、詩歌も愛した一成は、明暦2年(1656年)11月、86歳の生涯を閉じ、崇福寺(福岡市)と清岩禅寺に静かに眠っています。



【参考資料】
三奈木村史資料第1巻 他

(広報あさくら平成21年10月1日号掲載)

 

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