ふるさと人物誌29 郷土朝倉が生んだオリンピック選手 「後藤 暢」(ごとう とおる)

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■郷土朝倉が生んだオリンピック選手 後藤暢

(編纂委員・山崎長太郎)

 第15回オリンピックヘルシンキ大会と、第18回オリンピック東京大会に、我が郷土朝倉市から日本を代表して水泳で大いに活躍した高校生が二人います。
 1人は当時高校3年生(18歳)の後藤暢選手(比良松中~浮羽高)。もう1人は当時高校1年生(16歳)の森実芳子選手(杷木中~筑紫女学園)です。
 今回は、ヘルシンキ大会に出場した後藤暢選手を紹介します。


 


●郷土の誇り、銀メダリスト後藤暢
 後藤選手は、昭和27年(1952年)、ヘルシンキ大会(フィンランド)で競泳男子100m自由形に出場し4位入賞(58秒5)。続いて、競泳男子800m自由形リレーに出場し、日本チーム(鈴木弘、浜口喜博、後藤暢、谷口禎次郎)は8分33秒5の素晴らしい記録で世界2位(1位はアメリカ)となり、表彰台に上がり輝かしい銀メダルを胸に念願の日の丸を掲揚しました。
 この大会は、日本にとって戦後初めてのオリンピック参加で、ようやく世界の仲間入りができた、たいへん意義ある大会でした。しかも日本チームがメダルを獲得し、世界中の人々を驚かせ、日本中で喜びの声がうずまき、各新聞社が競って第一面に大きく報道しました。
 後藤選手は、昭和9年(1934年)に朝倉村恵蘇宿に生まれました。幼少期のころはどこにもプールがなく、自宅のすぐ南側を流れる堀川や筑後川などで魚を捕ったりして遊んでいました。だれよりも泳ぎが上手な子どもでした。
 昭和15年(1940年)、朝倉村立朝倉小学校に、福岡県で最初に25mプールができました。小学1年生だった暢少年より速く泳ぐ教師がいなかったことや、低学年のときに急流の筑後川を横断したなど多くの逸話が残っています。
 比良松中学校に入学した暢少年は、めきめき力をつけ、水泳競技福岡県大会などでことごとく優勝するなど、その実力が広く認められるようになりました。
 県立浮羽高校(現在の浮羽究真館高校)在学中には、全国大会や国際大会で頭角を現し、優勝して「福岡・朝倉の後藤」の名前が新聞に載るようになり、脚光を浴びていきました。
 昭和27年(1952年)、後藤選手がオリンピック水泳代表に内定したとき、毎日新聞は「新人は未だ十代で、練習次第では記録も急激に上昇する体力と泳法をもち、とくに200で2分8秒を記録した18歳の高校生後藤暢(浮羽高)と100m57秒を切るスプリントを持つ19歳の鈴木弘(日大)は古橋・橋爪の良き後継者です」と報じています。
 第15回オリンピックヘルシンキ大会に出場した浮羽高3年の後藤選手は、力を十分に発揮し、頭書の輝かしい成績を収め、我が郷土朝倉は大いに沸き感動しました。以降、「水泳の朝倉」の礎が築かれ全国大会に出場する中学生・高校生・大学生、実業団に入った者など、多くの選手が育ち活躍しました。
 後藤選手は幼年期から、父・均の厳しい教育を受け、不屈の忍耐力を育んでいきました。日本大学を卒業後、西日本新聞社に入り、第一線のスポーツ記者として、また、運動部長として長く手腕をふるいました。


●県下一早くできた小学校プール
 朝倉小学校のプールは、後藤選手の父・均(朝倉村村長を務めた)が中心となり、同村の有志たちの協力と村民の理解によって県下でいち早く建設されました。後藤選手も練習に励んだこのプールは、昭和15年の竣工から昭和42年の同校合併閉鎖までの28年間、「水泳朝倉」の名を生む原動力となりました。
 しかもプールの水はポンプ揚水ではなく、筑後川の水を堀川へ流し、その水を三連水車で汲み上げ、プールに揚水するというユニークな方式でした。このため、田植え前にプールを満水にして早くから泳げる利点もありました。
 現在は校舎が移転し、プールは水泳には使われていませんが、壊されることなく残っています。三連水車や藤井養蜂場に訪れる人の目を楽しませるための水草栽培に利用されています。
 また、藤井養蜂場の取り計らいで、プールの屋根のつるし看板に「ヘルシンキオリンピックの銀メダリスト『後藤暢』選手が幼いころに泳いで力をつけた由緒あるプール」と記されています。
 その後の調査によると、後藤選手の父・均は、近隣の学校のプール建設の設計をしたり、相談にのったりもしており、朝倉地方の水泳発展の先駆者的役割を果たしています。


●水泳一家
 後藤家は、父・均を中心に長男・龍美、長女・多恵、次女・美智子、次男・暢、三女・美弥子、四女・和子で、親子兄弟すべて水泳が上手なことで知られています。暢はオリンピック銀メダリスト、父・均は水泳発展の貢献者で、日本全国どこを探しても見られない、日本一の水泳一家です。
 長男・龍美は旧制浮羽中学校時代から明治大学時代に「自由形400mの後藤」として有名で、オリンピックの第一候補者でした。オリンピック開会を父と共に楽しみにしていましたが、不運にも日本が戦争に突入し、その夢が消えてしまいました。
 龍美は自分の夢が果たせないことを悟るや、青少年の水泳指導に力を尽くし、その結果、弟・暢選手を生むこととなりました。暢選手は、泳ぎの手ほどきは父から、泳法は兄から厳しく指導されたと語っています。
 長女・多恵は、旧制浮羽女学校のとき、兄・龍美から指導を受け、水泳に相当な自信を持っていました。女学校4年生のとき、筑後川で幼い兄弟を救助し、卒業時に特別賞として人命救助賞をもらい、以来、水泳に励みました。
 次女・美智子は旧制浮羽女学校1年のとき、権威ある明治神宮水泳大会で準優勝し、オリンピック候補といわれていました。さらに、三女・美弥子、四女・和子も兄姉たちと同様、比良松中・浮羽高校水泳部でさまざまな大会に出場し、いちだんと水泳一家の名をあげています。
 この父あってこの子等あり。この兄あって弟妹ありで、まさに郷土が誇る水泳一家です。

「浮高今昔」昭和28年卒生(浮羽高校PTA新聞から抜粋)
 初めて後藤暢選手の力泳を見たのは昭和26年(1951年)、高校2年の夏、200mのレース。それは生まれて初めて見る感動的な泳ぎでした。他選手の追随を許さぬ目の覚めるようなスピードと美しいフォーム。まさに芸術でした。やがて世界のトップレベルとなる泳ぎだったのです。
 敗戦から立ち上がろうとする日本人を勇気づけ希望を与えてくれた古橋、橋爪両雄と肩を並べて、我らの後藤暢も、ヘルシンキオリンピックへ出場するという興奮。誇りと喜びに沸きかえったものです。



【参考資料】
・旧朝倉体育協会表彰文
・本人等への聞き取り調査
・当時の新聞記録

 (広報あさくら平成22年2月1日号掲載)

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