ふるさと人物誌32 歴史編纂の先駆者 ~記録を次世代へ~ 「緒方 傳」(おがた つたえ) 

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◆歴史編纂の先駆者 ~記録を次世代へ~ 緒方傳

(編纂委員・後藤正明)

 「記録なくして歴史なし」といわれますが、朝倉地方の歴史は、記録されてきたものであり伝えられてきたものです。今までに、朝倉地方の歴史を記録し続けた人々のなかの一人で、自ら郷土史家と称した緒方傳を紹介します。


 


●祖父の教え、そして教師の道へ
 傳は明治28年(1895年)8月1日、福岡県朝倉郡甘木水町に父・緒方利三郎(惟政)、母・ツヨ(元秋月藩郷士・大倉種教の二女)の二男として、兄・友次郎、姉・クラ、サエに続く緒方家の末子として生まれました。
 緒方家は大分県緒方町の出身で、父の連帯保証のため資産没収となり没落し、甘木水町(昔は水祭町という)に移ってきたと伝えられています。父・利三郎は、甘木で商人として再出発しました。
 傳は地元の甘木尋常高等小学校を卒業後、上級学校には行けない境遇でしたが、母の実家・大倉家(上秋月)の援助、そして大倉孫六郎(種教)の教えで福岡師範学校第一部(福岡教育大学)に入学し教師を目指しました。母・ツヨの父・種教は、測量家・種周の子で、西洋軍学で藩に仕え、郷土の歴史記録を多数残しています。また、ツヨの甥・高島野十郎は、画家として世に出ています。
 当時の傳の心境は、師範学校「大正7年3月・第36回生、卒業満拾五周年記念アルバム」に寄稿した傳のメッセージから読み取ることができます。「私の念願は教育に関する、ある研究の著作であります。読んで呉れる人があってもなくても、このことだけは果たして教育界を去りたいと思います」。
 師範学校在学時代の傳は、緒方秋月(傳の当時のペンネーム、後に実家の町名にちなみ水祭子と号す)を名乗り、趣味は短歌と園芸で、絵を描くことを得意としていました。


●朝倉郷土研究への芽生え
 傳は幼少のころから旧記に親しみ、古きを訪ねる郷土の歴史に興味をもつようになったといいます。
 傳は最初の赴任地・馬田小学校を振り出しに、甘木小学校で教頭を務め、福田、蜷城、金川の各小学校で校長を務めるなど、小学校で約30年間勤務しました。傳の教え子の白水幸子(母・リクが大津屋 石田勘四郎の二女。白水森吉の六女)は、叔母が傳の妻・チカ(リクの末妹)であったこともあり「とにかくまじめな先生で、よく覚えています」と語っています。
 傳は敗戦の2年後、蜷城小学校を最後に退職します。第二次世界大戦中、教え子を少年飛行隊へ送り込み申し訳ないことをしたと心を痛め、小学校を早期退職したのだと、傳の孫・石田勝世は、自分の母(勝世の母は、傳の長女・美代子)から聞いた話として語っています。


●公民館で郷土史講座、図書室を開設
 傳は甘木町長の薦めで昭和22年~28年ごろ、甘木公民館主事として勤務しました。昭和24年6月からは社会教育普及の一助として、自ら郷土史講座(月に数回、講師は研究家、古老。テキストは甘木雑記、甘木根基、甘木記聞、甘木煙草種、安長寺縁起など貴重な文献を使用)を担当し、地域の人を大いに啓発しました。同時に傳は、館内に図書室も設けました。
 また、若い世代に郷土の素晴らしさを理解してもらうことを願い、編纂員として「甘木風土記」や民俗史などの著作を残しました。


●郷土色を保存した甘木商店街への提唱
 甘木公民館報(「あまぎ」昭和28年12月号)に、郷土色を生かす商店街と題して「甘木の家屋敷は「(略)折れ曲がった上に家並をもつ甘木街路の景観を悲観せず、むしろ之を工夫して九州随一の宿場町として郷土色を保存発揮することを強く提唱する」と寄稿しました。


●朝倉郡文化財保護委員会の設置に尽力
 昭和28年暮れ、郡町村会から郷土史編纂の嘱託を受けて資料収集を始めました。その翌年、午年にちなんで郡内約100の神社の絵馬巡礼を行います。傳は郷土文化史上、貴重な絵馬が風雨にさらされ、いたずらで破損または紛失していることを発見し、各方面に呼びかけました。
 その結果、朝倉郡文化財保護委員会がつくられ「郷土の宝」を指定することが決まったのです。


●安長寺豆太鼓の復元
 傳は、甘木山安長寺の歴史を調べ、戦中に途絶えた寺の祭りの復興に尽くしました。祭りで販売されていた「ばたばた」で知られる稚児の豆太鼓を工夫しながら復元したのです。そして、太鼓には自分の孫・牧子(長男・良彦の長女)を描きました。
 当時の傳をよく知る、元甘木市立図書館長の矢野毅は「甘木町の郷土史研究のほか、ばたばた豆太鼓の復元や、甘木焼(陶器)民芸の発展に貢献された」と語っています。さらに、同寺の住職・古泉同雲とともに、カンボク保存会を作りました。


●市報甘木に執筆、数万キロに及ぶ調査
 昭和32年1月から昭和41年5月まで、市報甘木に「郷土史跡めぐり」「ふる里の史話と伝説」を執筆しました。 大平山の大岩山奇岩、黄金川と川茸、古処山の稚児峠、秋月荒平城、松岡家三代の治水、女淵、白鷺塚、甘木大内城跡、馬田原などを精力的に調査し丹念に連載しました。この間、傳は甘木市史編纂員を務めました。
 傳は、昔語りの手記、古文書などの資料調査のため、寝食を忘れ風雨もいとわず、山川を越えて一カ月に300km、延べ数万キロを駆け回り、郷土の歴史を記録しました。また、新聞記事資料をもとに、自宅を新聞資料館として開設し全国から届く郷土に関する質問にも答えました。


●傳とその家族ら
 傳は、妻・チカ(福岡女子師範学校卒で小学校教師、ピアノが得意)との間に、長女・美代子(母・チカの実家、石田勝三郎の養女。夫とともに家を継ぐ)、二女・美千子、長男・良彦と、子どもに恵まれますが、二女・美千子を二歳で亡くしています。
 長男・良彦は、父・傳について、一つのことを始めるとそれに没頭し深く追求する性格だったと語っています。
 傳は写真撮影・現像に凝るほか、甘木付近の植物の研究にも没頭し、自宅の二階に温室を作りました。あるとき、来訪した植物学者・牧野富太郎博士を案内して野山を一緒に歩いたこともあったそうです。良彦が図書館情報学の道に進んだのは傳の勧めであったといいます。
 ユニークな一面もありました。豊原妙(初代甘木歴史資料館長・豊原徳の三女)は、傳が「筑後川、桂川に鯨が泳いできましたか」と自分と姉に話をしてくれたことを懐かしく語っています。
 傳は旧甘木市一木地区の調査の帰りに体調を崩しました。昭和41年5月に妻・チカと長男・良彦のもとへ上京しますが、翌月の6月10日に72歳で亡くなりました。傳自身、甘木市史編纂を断念することになり、たいへん心残りだったと思います。傳の墓は平成18年に東京(八王子興慶寺)に移るまで、甘木の浄土寺納骨堂にありました。


●傳の功績を後世へ
 傳の郷土史研究はやがて学校教育の場へ伝えられます。甘木朝倉中教研の社会科部会は、歴史カリキュラムの中に郷土史をいかに位置づけるか研究を重ね、昭和43年度に資料集を完成させました。当時、福城中学校校長の豊原徳は、資料集の序文で、将来、生徒の教材として活用してもらいたいと記しています。その後、豊原は、妻・マサ子(白水幸子の姉)の関係から、甘木市史編纂実務委員長を務め、傳の仕事を継承発展させました。



【参考資料】
・朝倉市立中央図書館所蔵資料
・甘木公民館報(「あまぎ」昭和28年12月号)
・「甘木市史」上巻、下巻
・甘木歴史資料館だより第46号
・甘木山安長寺資料
・石田勝世資料
・緒方傳(甘木郷土史年表)
・緒方傳(大津屋)文書(甘木歴史資料館所蔵)
・緒方良彦、牧子資料
・緒方良彦「リソースフル・マン」
・佐野至聞き取り記録
・市報甘木(昭和32年~昭和41年)
・写真集「甘木市のあゆみ」(昭和30年4月)
・白水幸子、豊原妙聞き取り記録
・豊原徳、マサ子聞き取り記録
・矢野毅聞き取り記録

(広報あさくら平成22年4月1日号掲載)

 

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