ふるさと人物誌35 芸術振興に寄与した画家 「金田 和郎」(かなだ わろう)

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◆芸術振興に寄与した画家 金田 和郎

(編纂委員・八尋節夫)

 過去に甘木・朝倉の地で近代的芸術の思潮並びに芸術文化の普及に尽力し、現在の郷土芸術振興の草分けとして素晴らしい足跡を残した人物がいました。
 その人は、当時旧制中学校の一美術教師だった金田和郎です。


 


●生い立ち
 和郎は、明治28年(1895年)5月3日、福岡県京都郡行橋町で金田亀市・サンの長男として生まれました。
 そして地元の高等小学校を卒業した後、明治43年4月、福岡県立豊津中学校(現在の育徳館高校)に入学。すでに、このころから絵を描くことに興味を覚え、同地在住の南画家・曾木聴松に手ほどきを受けていました。


●画道ひとすじに
 そのうち絵を描くことへの意欲が益々強くなり、遂に中学校を中途退学。19歳で京都に出て、本気になって絵に磨きをかける決心をしました。
 そして京都市立絵画専門学校別科(現在の京都市立芸術大学)に入学はしたものの、それだけでは満足せず、基礎から勉強し直そうと、同市にある市立美術工芸学校絵画科(同)に転学して努力を重ねました。
 そのうち校内競技会で運筆の良さを認められ賞牌を受けるまでに成長し、やがて神戸の神港美術展に出品するなど、和郎の作品は次第に多くの人の注目するところとなりました。
 そして大正7年、23歳で結婚。その後、専門学校3年生在学中に制作していた「水蜜桃」に改めて手を加え、第一回国画創作協会展に出品したところ、見事に「樗牛賞」を受賞することができました。「樗牛賞」といえば、日本画の巨匠・高山樗牛にちなんだ最高の賞です。
 そして卒業後も、さらに制作に没頭すべく、京都市立絵画専門学校の本科に入学し直しました。ところがせっかく入学したものの、2カ月ほど過ぎたころ、残念ながら病にかかり中途退学して郷里に戻り八幡市(現在の北九州市)に居住し静養に努めました。しかし、病の身ながら、そこでも制作活動に励みました。


●教師として朝倉へ
 やがて健康を取り戻した和郎は、安定した生活を求めるため教師の道を選び、大正11年(1922年)になって、福岡県立朝倉中学校(現在の朝倉高校)および朝倉高等女学校(同)に図画教師としての赴任の機会を得て、朝倉の地にやって来ました。住居は甘木町(琴平町)でした。
 そのうち、朝倉高等女学校は辞任しましたが、一方の朝倉中学校で腰を据えて教職に専念することになりました。
 大正15年になって彼の力量に関心を寄せていた人たちの発案で「金田南村画伯作品頒布会」が実現しました。早速当時の朝倉郡甘木町をはじめ、郡内各町村、浮羽郡田主丸町・吉井町などの旧家、有力者、教師など、およそ100人ほどの人々が集まるなか、約80点の和郎の作品が広く頒布されました。当時の教員の給与が安かった時代に、多くの家族を抱えていた和郎にとって大変な助けとなりました。


●画才花開く
 このことを機会に、一躍彼の作品なり画家としての名声が地域に高まり、一斉に彼の作品の素晴らしさが多くの人の目に留まりました。その後、和郎の制作意欲も一層高まることになりましたが、それにも増して嬉しかったことは、和郎に師事する教え子たちが、絵画制作に相次いで名乗りを挙げたことでした。


●和郎の人柄と作風
 教師としての和郎は、きちっと七分三分に掻き分けられた頭髪に短く手入れされた黒髭が特徴で、大正時代によくいわれていたハイカラな教師でした。生来真面目で几帳面、また情に厚い一面を持っていました。生徒は和郎のことを親しみをもって「キンタさん」とあだ名で呼んでいました。
 そして和郎自身、「教育は私にとって天職である」と、画業とは別に、誠心誠意、日々の教育に専念し、個々の生徒の将来についても良き相談相手となるなど、努力を重ねていきました。
 ところで画家としての和郎の作風は、大正時代の当時の流れを受けた、どちらかといえば南画を機軸とした国画会風的な日本画が得意で、絹本彩色の軸装の作品が主であり、世にいう山水花鳥の領域を中心とした制作が主なものでした。
 「樗牛賞」を取った「水蜜桃」をはじめ、大正初期に描いた「葡萄図」「牡丹図」、後期の「滝紅葉図」「山水図」「登鯉」「鴛鴦図」、昭和になっての「石榴」「竹薔薇図」「釈迦出山図」「蓬莱山」「遊鯉之図」「金魚」など枚挙に暇なく数々の名作を手がけてきました。


●指導中に倒れる
 図画教師としての和郎は、春は校庭の大けやきの新緑を、秋は菩提寺の櫨の紅葉を題材に、生徒を連れていってはよく写生をさせていました。昭和16年11月10日、この日も野外で二年生を指導していましたが、突然吐血を伴った状態でその場に倒れました。直ちに現場に居合わせた生徒たちが戸板に乗せて自宅まで送り届けましたが、残念ながら胃潰瘍のため回復にはほど遠く、ついに帰らぬ人となってしまいました。およそ19年有余の、朝倉中学校での勤務でした。
 そして昭和16年11月17日、甘木発祥の古刹臨済宗安長寺で学校葬の形で葬儀が営まれました。46歳でした。


●朝倉の芸術の発展
 和郎が死去した後、彼の遺風なり薫陶を受けて、朝倉の地から日本芸術院会員・日展理事・示現会常務理事の大内田茂士をはじめ、日本画家で朝倉中学の図画教師として後を継いだ森田正芳のほか、萩谷巌、浦山一正、鳥居芳雄などの画家が育ったのでした。
 また、平成3年10月には、和郎の回顧展が甘木歴史資料館で盛大に行われました。



【参考資料】
・京都国立近代美術館・福岡県立甘木歴史資料館発行「金田和郎」(平成3年)
・朝倉中学33回生同窓会誌「一原」「60周年誌」

(広報あさくら平成22年10月15日号掲載)

 

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