ふるさと人物誌38 郷土が誇る日本芸術会員 「画家 大内田茂士」(おおうちだ しげし)

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◆郷土が誇る日本芸術会員 画家 大内田茂士

(編纂委員・山崎長太郎)


 


●生い立ち
 大内田茂士は大正2年(1913年)、大内田茂吉・ハツの長兄として朝倉郡大福村大字大庭(現在の大庭字乙王丸)に生まれました。
 地元の小学校(現在の大福小学校)を卒業後、県立朝倉中学校(現在の朝倉高校)へ入学し、昭和6年(1931年)3月に卒業。5年間の在学中に、京都の絵画専門学校出身の若くて情熱あふれる金田和郎先生の指導を受けました。熱心な指導によって、クラスの中で将来、金田先生のような画家になりたいという五人組ができ、茂士はその第一人者であったそうです。ほかの4人も約束どおり立派な画家として活躍しています。
 茂士は9人きょうだいの長兄で、弟妹のことを考えると自分だけ好きな絵の学校へは行けない、両親に負担をかけてしまうと、ずいぶん悩みました。そしてついに軍人を志し海軍兵学校を受験しましたが、身体検査で不合格となり、一年間の浪人生活を送ります。8人の弟妹がいて、家では受験勉強もできないだろうと両親が心配し、隣村の志波村(現在の杷木志波)の円清寺に相談して寺の一室に下宿させました。


●画家への夢ひらく
 ある日、茂士の将来を決定するような偶然の出来事が起こりました。円清寺を訪ねてきた欧米帰りの画家・浜哲雄との出会いです。浜は茂士にパレットなどの用具を与え、好きな物を描くようにいわれた茂士は、即座に描きました。浜は茂士の才能を認め、軍人志望をやめて画家になるよう強く勧め、茂士の父にも会い納得させました。
 中学時代からの夢であり、仲間との約束でもある画家への夢がいっぺんに現実化したように感じました。茂士はこのとき19歳でした。翌年、福岡在住の画家・山喜多二郎太、高島野十郎から直接、絵の指導を受けました。
 23歳になると、小学校校長である父・茂吉の勧めで、宝珠山小学校で代用教員をすることになりました。宝珠山の豊かな自然の山里で、子どもたちと楽しく学び、遊び、カンバスを背に毎日のように絵筆を握りました。
 24歳になると、ようやく念願が叶って上京し、東京新宿絵画研究所で学びました。そして早稲田小学校で絵の教師になることができ、子どもたちに絵を楽しく教えるかたわら、後に日本芸術院会員となった鈴木千久馬に師事し画家として技量を高めていきました。


●絵の道ひとすじ
 若き希望に燃える茂士の前途にはさまざまな困難がありましたが、自らの努力で一つひとつ克服していきました。しかし戦争という悪夢だけは、どうすることもできませんでした。
 昭和19年、茂士が31歳のとき軍隊に召集され、野戦高射砲83大隊に入隊。台湾で終戦を迎えました。そして昭和21年、焼野原となった東京に復員し、直ちに焼跡にアトリエを建て、画家の仕事を始めました。無一物の茂士は、毎日が悪戦苦闘でした。しかし茂士は、画家としての仕事や夢に精根の続く限り励みました。
 彼の画家としての努力と才能を認め、いち早く後援活動をした人がいました。それは、同郷の朝倉市長渕の出身で、茂士の父の教え子でもある森部隆(元参議院議員・森部隆輔氏の弟)でした。森部は東大出身で、島根県知事のほか、台湾総督府総務局長を務めました。森部は茂士を台湾へ招き、台湾一周取材旅行を世話しています。また、茂士の絵画の販売にも力を貸しました。
 茂士は昭和18年2月に台北鉄道ホテルで個展を開催し、同年4月には台湾総督府の嘱託となりました。茂士は、この一カ月の台湾取材旅行が最も勉強になり、たいへん世話になったと、後に述べています。
 やがて茂士の作品に対する理解者が次々と現れ、協力者、後援者となって力強いバックボーンとなり、画家としての活動が盛んになりました。その中には田川市の炭鉱経営者や同郷の先輩(福岡県人会員)が数多くいました。昭和24年4月、正式に後援会が結成されました。
 茂士は台湾取材旅行を始め、60歳を過ぎて7回も海外取材へ行き、スイスを始め10カ国を巡り歩きました。
 日本画壇でも活躍しました。特に示現会の設立のときには、九州代表の画家として設立委員を務めました。設立後は、示現会の理事長として会の発展と会員の指導に努めています。朝倉高校出身のある若い画家は、良き相談役として親しまれ尊敬する人物であったと記しています。
 一方、日展では展覧会ごとに絵画を出品するだけでなく、審査員・評議員となりました。示現会・日展を活動の舞台として作品の出品・個展開催などを重ね、自ら研鑽を積んで新画境を開き、画家としての階段を着実に登り極めました。
 茂士は美術大学や絵画専門学校で学ぶ機会はなく、ほとんど独学で写実的な構成と色彩の調和をはかる清新な油絵を身につけました。「日展の異端児」といわれながらも、常に新画境に挑み、さまざまな技法を凝らした大内田芸術を創りあげ、画壇では希有な存在として高く評価されています。
 数々の名誉ある賞も受賞しました。「静物」が国展入選(昭和17年)、「隈」が文展入選(昭和18年)、「室内」が日展特選(昭和26年)、「秋の卓上」が日展内閣総理大臣賞(昭和59年)、日本芸術院賞・恩賜賞(昭和63年)などです。
 これらが評価され、平成元年に日展理事に就任し、平成2年には日本芸術院会員となり大いに画壇での活躍が期待されていました。しかし病に倒れ、平成6年2月1日、80年の生涯を閉じました。
 死後のアトリエには、1500点もの貴重な作品が残されていました。これだけの作品を残していた画家はほかにいません。茂士の日ごろの信念・行動が今更のごとく蘇ってきます。「絵描きは絵を残すことが大切だ。絵描きは絵を描いて食べられればいい。それ以上の絵を売るもんじゃない」という茂士の言葉が本来の画家の姿を現しています。


●遺族の願い
 画業の初期から長い年月にわたる応援のお礼として、田川市美術館には、茂士の残した貴重な作品のうち97点が寄贈されています。同美術館ではいろいろな文化行事が催されるたびに茂士の作品が展示されています。
 また、残りの1251点は福岡県立美術館に寄贈され、鑑賞だけではなく研究資料として広く活用されています。県民の芸術文化振興に役立てて欲しいという遺族からの願いです。
 偉大な画家・大内田茂士は、朝倉のみでなく福岡県民の誇る人物です。茂士の生き方、努力、研究そして何ものにも負けない精神力について、我々が学ぶことはたくさんあります。また、茂士の作品が身近に鑑賞できる日が来ることを一日千秋の思いで待っています。



【参考資料】
・田川市美術館 大内田茂士遺作受領目録
・福岡県立美術館 大内田茂士遺作受領目録
・大内田友枝「夫 大内田茂士のこと」
・大内田茂士画歴、回顧展冊子ほか

(広報あさくら平成23年1月15日号掲載)

 

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