ふるさと人物誌40 木蝋製造家で俳人 ~朝倉文化の顕彰者~ 「上野 嘉弥太」(うえの かやた) 

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◆木蝋製造家で俳人 ~朝倉文化の顕彰者~  「上野 嘉弥太」

(編纂委員・後藤正明)

 

 朝倉の文化は、脈々と育まれ伝えられてきたもので、人生のすべてを文化目的に捧げた同地域の人々の結晶です。この文化を明らかにし、歴史を掘り起こして伝えたなかの一人で、木蝋(蝋燭などの原料)製造を家業とした上野嘉弥太を紹介します。

●上野家のこと

 上野家は、安土桃山時代に活躍した筑後国上妻郡(現在の八女市)の国人、筑紫広門の家臣で、初代上野伊賀守正門の子孫と伝えられています。二代目正豊は、筑前国夜須郡吹田村(現在の朝倉郡筑前町)庄屋役、さらに福岡箱崎に出て諸々の商売をし、元禄15年(1702年)、夫婦共に夜須郡甘木村上新町(現在の朝倉市甘木)に引越し、酒造商を始めました。
 享保9年(1724年)、四代目正之は水町に移り、酒屋(商標「ウエカ」から「マルジョウ」が分家)を営み、弟の弥三右衛門も商家「ヤマジョウ」として別れます。五代目正勝の弟・弥兵衛は明和6年(1769年)、別家した後、蝋屋「クモカ」を始めます。そして翌年、次弟の杢次も蝋屋「イリジョウ」を営みました。
 「」出身の佐平は、安政3年(1856年)、福岡藩生蝋御仕組に関わった甘木高原町の佐野屋の養子となり、大いに活躍しました。

●嘉弥太の生い立ち

 嘉弥太は、上野蝋屋(「クモカ」)の五代目好三郎と、クメヲ(現在の朝倉市相窪の橋本家)の長男として、明治29年(1896年)11月7日、朝倉郡甘木水町に生まれました。兄弟姉妹は、すぐ下の妹みとよ(長女)、二男嘉壽(呉服商、甘木四日町菱屋)、二女博子、三男昇、四男大蔵、三女富久の四男三女でした。
 嘉弥太が旧制朝倉中学校(現在の朝倉高校)一年のときに書いた作文「吾が家」に、自家の家業や家族を愛する一文を残しており、嘉弥太の心根がうかがえます。

●朝倉中学初代校長の教えに感化

 明治41年3月、旧制朝倉中学は、杷木の熊谷藤五郎や三輪の多田作兵衛ら創立委員の努力で、県下6番目の学校として誕生します。初代校長の秋吉音次は31歳で校長となり、学問の神様といわれる菅原道真公を教育の中心に掲げ、教育にあたりました。
 嘉弥太は朝倉中学校2回卒業(大正3年)で、在学中に秋吉から人生の指針となる堅忍不抜の精神を学びました。朝倉中学といえば、勤労教育・集団作業が有名で、その作業から培ったものが、友との絆であったといえます。

●加藤新吉との友情

 嘉弥太は、朝倉中学で同級の加藤新吉と出会いました。日本と中国の間で戦争が始まった昭和12年、嘉弥太は甘木町議会議員選挙に出馬します。その応援に、南満州鉄道勤務であった新吉が、激務中にもかかわらず馳せ参じています。昭和29年1月、新吉は、三奈木村村長の現職中に亡くなります。嘉弥太は新吉から強い影響を受け、朝倉の文化・歴史との関わりを深めていきました。

●木蝋製造と林野政策への懸念

 朝倉の櫨蝋は江戸時代の享保大飢饉以後、農家の副業として始まり、また藩の財政立て直しのため木蝋の専売仕法が登場します。五代目好三郎は明治時代に、筑前木蝋同業組合の朝倉支部長を務めます。
 嘉弥太は、中学卒業と同時に家業(製蝋業兼質屋)の仕事を本格的に行い、昭和14年、日本木蝋工業組合連合会の理事として活動しました。
 戦後、嘉弥太は、昭和35年から42年まで日本木蝋商工組合四代理事長を務め、西日本の木蝋業の発展に貢献しますが、政府の林野政策(杉の植樹など)に対して、大きな懸念を抱きました。嘉弥太は、灯火用光エネルギーの変革の中で、木蝋需要が落ち込む中、懸命に木蝋を製造し続けます。
 朝倉の製蝋業者も明治以降、30軒以上ありましたが、昭和30年代、上野家1軒となってしまいました。上野蝋屋は、国内では東京、大阪の問屋へ蝋を出荷し、海外ではアメリカが主な輸出先でした。時代が移り、昭和46年、ついに廃業することになりました。江戸時代から昭和前期にかけて、朝倉地方を彩った櫨紅葉は、時代の流れとはいえ同地域からその姿を消してしまったのです。

●俳諧の道、高浜虚子・ 年尾父子らとの交流

 嘉弥太は大正9年、20代半ばから俳句を始めます。当初、俳諧の先輩たちや吉岡禅師洞らから教示され、特に禅師洞に深く師事しました。一時中断後、虚子の愛弟子の川端茅舎に師事します。昭和14年、茅舎の九州俳諧旅行が、杷木の小野房子の熱烈な要請で実現しました。同16年、茅舎の没後、房子主宰の「鬼打木」の活発な活動で、嘉弥太の俳句活動に火がつきました。
 昭和21年、高浜虚子は、父の池内庄四郎(伊予松山松平藩士)が秋月藩の藤田仲らと剣術試合をしたゆかりの地・秋月へ赴く途中、嘉弥太宅に宿泊しました。この機会に、一句賜っています。「初時雨ありたりとかや庭の面」と。その後、上野家の庭に虚子の碑が作られました。

●緒方無元との俳諧・文化顕彰

 朝倉中の四年後輩に緒方久一郎(号は無元)がいます。嘉弥太の俳諧の友で、地元朝倉の文化・歴史の顕彰をともに計画し、協力しあいました。
 昭和27年、嘉弥太らは原鶴小野屋で、三笠宮殿下と俳諧の一時を過ごす機会を得ました。俳句では、昭和33年、ほぼ同時に虚子からホトトギス同人の推薦をうけます。二人の作風はまったく違っています。嘉弥太は風流好み、無元は写実好みでした。
 二人は、虚子師指導のもと、その弟子・河野静雲の影響の中で、朝倉俳諧の基礎をかため、後進の指導にあたりました。現在、その教え子の方々に受け継がれています。

●嘉弥太と能楽宝生流

 朝倉宝生流は三奈木の黒田一雄(福岡藩家老)に源を発し、詳細は、三奈木黒田家の家臣の家に生まれた尾野実信(のち陸軍大将)の「黒田一雄略伝」に記録されています。
 嘉弥太は大正4年ごろから朝倉宝生流の縁を頂きました。会として一七世宝生九郎家元を迎え、朝倉入地にある恋の木桂の池記念植樹、さらに、記念碑建立にも関わり、史跡の顕彰をしています。

●社会活動、その信条

 嘉弥太は町議二期の経験から、実際行う奉仕こそが真の奉仕者だという信条のもと、郷土朝倉の文化顕彰に力を注ぎました。昭和35年、甘木ロータリクラブ設立に参加し、後に会長となります。また、甘木市遺族連合会会長や新制朝倉高校の初代同窓会会長も務めました。

●嘉弥太の句集「黄櫨帖」

 嘉弥太は昭和41年、朝高同窓会の役員会で突然脳卒中で倒れ、直ちに九大付属病院に入院、病床の身となります。懸命のリハビリが続く中、妻・タカの懇願により、嘉弥太の俳句集が刊行されることになりました。
 俳句集は、小野屋の律子が協力し、高浜年尾が俳句を選定し、原三猿子らの支援もあり、完成しました。句集名「黄櫨帖」は、昭和33年、虚子が名付けたものです。この句集には家業の木蝋の句が多く、昭和15年に読んだ句「くろがねの裸たのもし蝋絞り」も掲載されています。
 俳句の号は、木蝋と縁が深い「嘉太櫨」と名付け使っています。嘉弥太は昭和45年2月3日、74歳で亡くなりました。菩提寺は甘木七日町教法寺です。

●嘉弥太の俳句再登場、そして家族

 平成16年、NHKの教育テレビ「にほんごであそぼ」の名句に嘉弥太の句が掲載されました。その句は「雪沓のぎゅうぎゅうとなる山路かな」で、嘉弥太の風流さが表れています。そして現在、嘉弥太の意思を引き継いで、七代目当主・寿三と妻・幸子が上野家を守っています。

【参考文献】

・朝倉市立中央図書館所蔵資料
・「甘木市史」下巻
・岩下四十雀「虫の居どころ」
・上野嘉太櫨「句集 黄櫨帖」
・上野嘉壽作成「甘木酒屋蝋屋 上野家系譜」
・上野家文書(上野寿三所蔵)
・尾野実信「黒田一雄略伝」
・武重雅介「朝倉宝生記」
・齋藤孝「にほんごであそぼ 雨ニモマケズ」
・長野敏樹「朝倉中学・高校物語 朝中原林」

(広報あさくら平成23年4月1日号掲載)

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