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ふるさと人物誌8  世界で初めてレントゲン胸部間接撮影法を開発 「古賀 良彦」(こが よしひこ)

登録日:2011年03月21日

 
ふるさと人物誌ロゴ ◆世界で初めてレントゲン胸部間接撮影法を開発 古賀良彦 古賀良彦
 私たちの郷土朝倉から放射線(レントゲン)研究をして、保健面で広く世界の人々にまで大きく貢献した親子が生まれています。
 その父親は、世界で初めてレントゲン胸部間接撮影法を開発した古賀良彦という人です【注・世界で二人、同時期にブラジルのド・アブローも開発】。
 子どもは古賀佑彦といい、現在も名古屋において研究活躍中です。
 良彦が放射線研究をはじめた昭和のはじめ頃は、肺結核にかかると「肺病」と言われ、人に伝染する恐ろしい病気・一生治らない金食い病・ぜいたく病と大変きらわれました。
 肺結核にかかったら別の建物へ移され、家族から離れて暮らさなければならない時代で、患者の家には子どもたちも寄りつきませんでした。



●医学の道を志した良彦少年

 良彦は、明治34年(1901年)旧大福村大字入地(現朝倉市)の乳業家(乳牛飼育から牛乳販売)古賀章太郎の三男として生まれ、兄弟12人(男6・女6)の大家族の中で育ちました。
 小学校を卒業して県立朝倉中学校(現朝倉高校)へ進学しました。
 彼の毎日の生活は、家業の牛乳配りの大変な仕事を手伝いながらの中学生活でした。毎朝暗いうちから牛乳を背負って、しかも歩いて1軒1軒に配る大変根気のいる手伝いでしたが休むことなく続け、仕事が済むとおよそ8キロメートルもある中学へ歩いて通いました。
 良彦のこんな姿を見て近所の人たちは「なんと親孝行で、辛抱強い働き者だろう」と感心しました。
 青雲の志に燃える良彦は、働きながら人一倍勉強に励み中学校5年間成績はいつも首席(1番)で通し、中学を卒業すると熊本第五高等学校(現熊本大学)へ進み、更に医師の道を求め九州帝国大学医学部(現九州大学)にみごと合格、医師を目ざしての第一歩を、自分の力と努力によって得ることができました。
 こうして日夜勉学にはげみ、昭和2年(1927年)にめでたく卒業、同時に医学部内科学教室に入局し、放射線研究をしていた中島教授の研究室で放射線研究をはじめました。この頃の時代は放射線研究をする人はごく少なく、また変わり者とまで言われました。それは、『放射線を研究しても金にならない。放射線を研究していると自分の命が危ない』と言われていたからです。しかも医学会も外科とか内科のように重要とは考えなかったようです。
 良彦はこのような事も理解し、自分の信じる道・放射線研究へただひたすらに黙々と5年間研究して、助手から講師へ進み昭和7年(1932年)助教授となり併せて博士号も取得しました。
 彼はこの5年間の中で、すでにレントゲン胸部間接撮影法の構想を持っていました。

●東北大学放射線研究へ

 良彦は東北大学医学部放射線研究医師として赴任以来退官するまで実に30余年間、東北地方の結核撲滅のための研究と医師育成に情熱を傾けてとりくみました。
 昭和8年(1933年)に当大学からの招請の赴任でしたが、講師・助教授の身分が長く、冷遇とも言える9年間を彼は甘んじて受けました。昭和17年(1942年)に、ようやく東北大学に放射線科が設置され、はじめて初代教授となり手腕を発揮する事ができるようになりました。
レントゲンイメージ 昭和18年(1943年)には、日本で初めてレントゲン胸部間接撮影法を開発して、第1回「技術院賞」を受け、九大研究室以来の成果が認められました。
 この開発した撮影法は日本の陸海軍で取り入れられて立派な成果が上がり、そして広く使用されるようになりました。それは集団検診ができ効率がいいだけでなく、胸部写真に基づいて正しい診断ができるという画期的な開発だったからです。
 一方、良彦の研究室からは彼の適切な指導によって、多くの放射線研究医師たちが輩出しています。良彦の一番弟子と言われる「高橋信次」は、X線CTの先駆者と言われ世界的に有名になりました。現在のコンピュータ断層撮影の基本・土台となった「回転撮影法」を開発して、輝かしい文化勲章を受賞しています。その外、松川明(福島医大学長)星野文彦(東北大医学部長)などの人々です。
 昭和27年(1952年)には附属病院内に「放射線学校」を創り、自分から校長となって多くの放射線技師を養成して、レントゲンの普及にも力を入れました。
 また実際医療活動も積極的に続けました。自分で開発した器具を自分で担いで岩手県の山奥まで数日間の泊り込みで多くの人々の診断をしました。
 東北地方は従来結核患者の多い地方といわれ、特に岩手県は全国一、二となっていました。このような地域ですから、良彦の診断活動が基になって結核への取り組み方・結核への認識などが大変前進しました。
 以上のような良彦の活動が認められて、昭和23年(1948年)には「保健文化賞」を受け、更に昭和37年(1962年)には「結核半減記念賞」という名誉ある賞を受けました。

●親と子二代の放射線研究

 良彦の息子もまた、父と同じ道を歩き世界の人々の幸福のために、医学・医療に大きく貢献しています。
 古賀佑彦は、昭和10年(1935年)良彦の次男として生まれ、東北大学医学部を卒業して父親と同じ道を歩いて名古屋大学放射線医学教室に入局、講師を経て昭和48年(1973年)に名古屋保健衛生大学(現・藤田保健衛生大学)の医学部教授に就任。2001年退職と同時に、同大学の名誉教授になりました。
 2001年4月には、原子力安全研究協会参与として、「緊急被ばく医療ネットワーク」づくりに参画、そして医療放射線防護連絡協議会会長の重要ポストにつき、医療における被ばく問題や防護などについての研究や、この問題解決への取り組みを放射線医学会に提起しています。
 特筆する事は、父親良彦と二代に亘っての重要ポストに就任していることです。それは、「日本医学放射線学会会長」という日本を代表するものであるし、日本の放射線研究が世界の医学界でも大きく正しく認められ、世界の医学界をリードする役割をも担った要職です。
 現在名古屋において遠隔画像診断の仕事に取り組んでいます。

●郷土の医学発展を夢みて

 良彦は、昭和39年(1964年)久留米大学の強い招請を受け、第4代学長に就任しました。
 久留米大学は旧制の医科専門学校が基になって新制総合大学と大きく発展をしています。その途上の学長就任ですから、研究の実績は勿論のこと経営の手腕、教育者としての人格や識見の秀れた人ということで、良彦が最適任者と認められ白羽の矢が向けられました。
 良彦は地域住民の要望や新制大学発展のために、遠い東北から故郷久留米へと着任しました。この着任には地域のすべての人たちが両手を挙げてよろこび迎えました。そして、良彦の手腕にも大きな夢が期待されました。
 良彦の手腕は着々と発揮され、いろいろなプランの消化や、新しいアイデアもできました。特に良彦の夢である医学の充実発展と現在直面している放射線治療や「癌」治療を最高の技術と最新の施設でということで、ヨーロッパまでわざわざ研究視察に行き、夢実現の第一歩というときに残念ながら病魔に倒れました。
 長年の放射線研究のためか、また精力的研究の疲れのためではと案じられながら、久留米大学附属病院で最新の治療と手厚い看護を受けながら65歳の若さで、昭和42年6月29日に急逝しました。
 良彦のあまりに早い死を先輩後輩、多くの人々は惜しみ悲しみ、こう言っています「古賀良彦の早すぎた死を開拓者の運命と言いきってしまうには、あまりにも哀切にすぎる」と。
 その功績によって、従三位勲二等瑞宝章を贈られています。

【参考資料】
岡田光治/X線CTの先駆者高橋信次
久留米大学同窓会会報第50号
加藤治夫監修/防ぐ、治す 肺がんの最新治療
古賀恒喜/聞き取り調査

(広報あさくら平成19年4月1日号掲載)

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