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◆九州俳諧のリーダー 蕉門の俳人 篠崎 兎城 |
いさり火や すかせば更に 秋の雲 兎城 兎城は、元禄・享保年間(江戸時代の中頃)に活躍した俳人で、杷木上町出身です。 本名を篠崎新助といい博多の練酒屋に生まれ、その後杷木に移り住んでいます。18歳にして、談林派の中心人物井原西鶴より俳諧の指導を受けた日田の「中村西国」の門に入り、「岩国」と称しました。 西国が亡くなったあとは博多の「風呂屋素閑」の弟子となり「閑夕」と号して元禄10年頃の俳書に数多く入集しています。当時兎城には100名以上の門人がいたと言われています。 |
●兎城の事跡の発見
日田市出身の大内初夫氏(当時大学教授・近世九州俳壇史の研究等多数の著書あり)は、兎城が俳書「野坡吟草」等によって蕉門十哲(芭蕉の俳風を受けついでる代表的高弟)のひとり「志太野坡」と深い関係にあり、享保14年(1729年)に「門鳴子」という俳書をだしていることを知ります。
「門鳴子」から「惟然」・「丈草」・「諷竹」等の蕉門高弟たちとの交流もうかがわれ、俳諧の世界で蕉風が九州にどう伝わり広がったかを知るうえで、兎城の伝記を明らかにしようと何度も杷木を訪ねられていました。
しかし杷木には兎城の名を知る人もなく、兎城に関する何物もなかったそうです。ところが偶然福岡市の大浜公民館長の三宅氏が兎城短冊を見つけ、杷木の公民館の井手滝次郎氏に知らせました。短冊には前記の「いさり火や」の句が書かれており裏面に「俳人兎城本名篠崎新助 享保15年正月元旦没 年69」と記されていました。井手氏はこれによって篠崎家の墓地を調査し兎城の墓碑をみつけ、杷木の長念寺の過去帳より家族のことも明らかになりました。
この兎城の墓の発見を契機に、兎城の門人であった朝倉長渕の「樗路」の書いた書物が見つかりました。「鉢袋」と呼ばれています。この書の中に兎城のことが書かれており九州俳壇でめざましい活躍をした兎城の事跡は大内初夫氏の研究で明らかになったのです。およそ50年前のことで、大内氏は昭和33年に俳誌「冬野」に「九州の古俳人、篠崎兎城」を9回にわたって連載しています。
●松尾芭蕉と蕉風の伝播
芭蕉は天和3年(1683年)「虚栗」で新しく漢詩文をとりいれた句風を示し、独自の句境を開き、翌年郷里伊賀へ「野ざらし紀行」の旅をしました。この旅でほぼ蕉風が確立されたといわれています。
その後次第に閑寂味と幽玄味を加え、元禄4年(1691年)「猿蓑」でわび・さびの句境を完成させ、さらに新しい境地を拓こうと軽みの俳諧を唱え元禄7年「炭俵」の平淡な句境を生み出しています。この年九州に旅する途中、病に倒れ門人に見守られながら大阪の宿舎で一生を終りました。
俳人芭蕉の名は今では知らない人はいませんが、芭蕉生存当時の蕉門の勢力は1割程度だったといわれています。しかし芭蕉没後、蕉門の動きは活発化し全国各地に急速に伝播・流行し俳壇地図の大半を蕉風でぬりつぶしています。福岡県内には芭蕉塚が71個、蕉門の人々の塚は25個存在します。
●兎城の閑夕時代
芭蕉没後、芭蕉の遺志を達成しようと、蕉門俳人たちが相次いで九州に来遊し蕉風を広げようとします。元禄8年、鳥落人惟然(蕉門十哲の一人)が杷木の兎城のもとを訪れています。
聞きにし杷木の新助(兎城の本名)亭にて
霜かるゝ 此山ぞひや 松の蔦 鳥落人
の句(門鳴子に収録)があり、この時兎城も
白妙や 蕪菜は雪の うもれ草 閑夕
と吟じています。
兎城は惟然を自宅に泊め俳諧を行っていますが、以後親しく接することはなかったようです。元禄11年、各務支考(蕉門十哲)の筑紫旅行にも近付いていません。
この頃蕉風は徐々に広がっていましたが、兎城は蕉風になびかず談林派の俳人として門戸を構え門人の指導をしていました。
しかし、閑夕時代の彼の句は
畦豆の からつく風の 夜寒かな
などが九州蕉門の俳書に入集していて、元禄15年、近江の蕉門正秀、酒堂撰の「白馬」に
行水に 尚も残暑の 薄ねばり
など4句が入集するなど、蕉門の人から高く評価されていたことがうかがわれます。
●蕉門、「志太野坡」との出会い
芭蕉七部集「炭俵」の撰者で知られる「志太野坡」(樗子・樗木舎の号)は元禄11年から10数回にわたり九州を行脚し、蕉門の裾野をひろげました。温厚な人柄で社交性にすぐれ、九州に門人1000名を超える一大勢力圏を築いています。
「野坡」が何度目かの来遊の時、吉井で俳諧を行うとの話が兎城にとどきました。兎城は「野坡は芭蕉の門人と聞いているがどれほどの人物なのか、彼の発句はあまり目にかからない。誰か吉井に行って器量を見て来い」と門人に命じました。長渕の樗路(当時-こん路、のち猪路)がその役目を受け持ち吉井の旅宿に「野坡」を訪ねます。対面後、樗路は句を求められ即座に
蝶々や 松を出品の 朝あらし
かきまぜる 波一はなや 苗の道
の2句を書いて出すと、「野坡」はこれを
蝶々や 松を出ばなの 朝あらし
かきまぜる 波一ゆりや 苗の道
と添削しました。
その夜半、樗路は急ぎ兎城や門人の待つ杷木にもどり添削された句を差し出し、ことの仔細を報告しました。兎城はくりかえしその句を詠み「これ誠に我が師なり」と。翌日「野坡」は杷木の兎城亭を訪れ師弟の盟約を交わし、閑夕号であった兎城に「兎城」の号を与え軒号を「藪の家」と名づけています。
その後、兎城は樗門(野坡の門下生の呼び名)の代表的な俳人として活躍し九州各地に蕉風をひろげていきました。彼の句は数多く俳書の中に入集されています。現在まで発掘されている兎城の句は86句にのぼっています。
●人々に愛された兎城
兎城は享保14年(1729年)12月29日その生涯を終えました。俳人仲間には元旦に死去と伝えられたそうです。
野坡の弔句
初鶏は あくびのなみだ 此のなみだ
が寄せられています。
兎城門下生の長渕の猪路も野坡から「樗路」の号を受け樗門として活躍しました。野坡没後、自宅に「蕣塚」を建立し野坡と兎城の霊を併せて祀っています。塚はその後長渕の墓地に移動したそうですが現在は行方がわかりません。
同じ兎城門の後藤遊五(朝倉石成の庄屋)は、兎城が生前撰集し「遊五」に依頼していた遺稿本「門鳴子」を京都で出版しています。遊五は石成の清水ケ岡に「鶯塚」を建立して野坡を祀っています。
兎城の墓は門人たちによって現杷木地域センターの前の墓地に建立されました。墓の裏面に
かげろうに 初陽炎や 初笑ひの辞世の句が刻まれています。
兎城が多くの人々に尊敬され愛されていたことが推察できます。
毎年旧暦の正月には杷木の俳句会の皆さん(約30名)が墓前に参り、兎城忌の句会を開き偲んでいます。
【参考資料】杷木俳句会講師の井手直氏に資料をお借りしました。
大内初夫著/俳人篠崎兎城
大石實著/福岡県の文学碑
門鳴子
杷木町史
(広報あさくら平成19年10月1日号掲載)