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ふるさと人物誌13 県下第一の養蚕業興隆に尽くした 「安陪 庄作」(あべ しょうさく) 

登録日:2011年03月21日

ふるさと人物誌ロゴ◆県下第一の養蚕業興隆に尽くした  安陪 庄

安陪庄作



●生い立ち

 安陪庄作(天保3年~明治30年)は三奈木の出身で、農業家として郷土の産業の発展に尽くした人です。また県会議員をつとめ、政治でも活躍しました。特に、県下でいち早く養蚕業の振興に努め、農家の中心産業として広めることに力を発揮しました。
 庄作は、天保3年(1832年)、荻本伊右エ門の第3子として生まれ、天保10年、福岡藩家老黒田氏の家臣に属していた安陪家の養子となりました。天保13年、家を継ぎ三奈木に住みました。そして、福岡藩の命で長崎警備に従ったり、慶応2年には、長州追討の役に従ったりしました。
 明治の世になると、王政復古、四民平等、廃藩置県と世の中の仕組みが急激に変わりました。その激動する中にあって、庄作は郷土のリーダーとして村々の世話を任されました。県会が開かれると、庄作は公選で朝倉3郡の最初の議員の一人にも選ばれました。
 しかし、庄作の心にはどうしてもやりたい夢が有りました。人間には、もって生まれた才能がある。人間としての成功は、その才能を伸ばし生かすことだ。自分にとっては、殖産興業を通して世の役に立つことだ。彼は、県会議員を辞めて、殖産興業の振興に専念しました。

●難局を養蚕で乗り切る

 明治になって多くの士族は仕事をなくし、何で生計を立てるか迷っていました。農業や商売などいろいろ取り組みましたが、士族の商法でうまくいきませんでした。そのとき庄作は、「三奈木は、東北に山があり、南は広く開けた地形で、空気の通りもよい。また、佐田川の水も豊富で、川が運んだ砂や土でできた土地である。この地形や気候から考えると、蚕を飼うのに適していると考える。この難局を養蚕業を起こすことで乗り切ろうではないか」と仲間に呼びかけました。

●各地の養蚕業に学ぶ

明治5年(1872年)の春、庄作は桑種を求めるため、仲間を募って筑後地方に出かけました。買い求めてきた苗は、仲間に分配して桑園を作るよう勧めました。「この養蚕業は、郷土の産業として大きく伸ばさなければならない。多くの人と手を携えてやることで、郷土の産業として成長させることができる」これが彼の信念でした。これ以後、これまでの自然生の山桑から品種の良い桑園へと年々改良されていきました。
 明治6年春、庄作は各地の養蚕業の篤志家を探しては、よい蚕を育てる桑種、蚕の育て方や製糸業の在り方などについて教えを請いました。
 庄作は自ら出向いて学び、工夫するとともに、仲間にも教えました。また、仲間に旅費を与えて各地の養蚕業についても学ばせました。養蚕業を盛んにするためには、よく働くことも大事だが、多くの人に広める手助けができるようになければならないと考えたからです。

●養蚕から製糸へ

 明治7年、上州(群馬県)製の座操車を手に入れると、郷里の職人奈田金十にこれを大量に造らせ広めました。
 明治8年、仲間を熊本に派遣して、夏蚕を飼育する清涼育という方法や座繰製糸法を学ばせました。自らも夏蚕を飼い、蚕児育養法や座繰製糸法を多くの人に伝えました。努力の結果、養蚕事業がようやく郷土に根を下ろし始めました。
 明治9年、養蚕製糸の技術者を養成するため、県内に広告し募集しました。すると、技術を学ぼうと、遠近の有志の子女がたくさん集まって来ました。
 その一方で、仲間と計画して、肥後の製糸場に女工を派遣して、更に新しい技術を取り入れることも続けました。そのため、製糸業は更に充実していきました。
 この年、養蚕製造組合条例に基づき、筑前の同業者がまとまって筑紫組という会社を設立しました。庄作は、選挙で役員に選ばれました。
 明治10年、庄作は、蚕種の飼育に成功し、同業者に分けることができるようになりました。このころになると養蚕業が充実し、機織法の研究が必要になりました。そこで、庄作は二女のいとを熊本に派遣し、その方法を学ばせました。そして、自宅で郷土の婦女子に技術を教え広めることにも取り組みました。この技術を学んだ多くの者は、家計の収入を増やすことができました。

●世界に羽ばたく「月恒社」誕生

 明治14年(1881年)、庄作は仲間と力を合わせて製糸会社を起こしました。新月が満月になるように、会社がますます盛んになることを期待して、会社の名前を「月恒社」と名付けました。
 社長に推された庄作は、「今我が国は、多くの品物を輸入に頼っているが、本当にこのままでいいのだろうか。人々の暮らしを豊かにし、国を富ませるためには、私たちの智恵で産業を興し、作った品物を諸外国に売る策を考えなければならない。私たちは養蚕業を更に盛んにして、絹糸を諸外国に輸出しようではないか。このことで国の輸出入の均衡を取り戻すことの一助になろうではないか」と社員に熱く語りかけました。
 明治16年、「月恒社」は経営に失敗し解散することになりました。しかし、庄作の養蚕業に対する情熱は衰えませんでした。庄作は、その後も新しい養蚕技術の普及・指導活動を続け、長男勝太郎には、顕微鏡を使った繭の研究に取り組ませました。
 やがて、三奈木を中心とする朝倉地方の養蚕・製糸法の技術は、九州地方で高く評価されるようになりました。大正14年には、朝倉地方の桑園の面積約1120ヘクタール、繭の収穫量約395トン、売上は当時のお金で117万7224円になりました。その後も、昭和15年頃まで伸び、郷土を豊かにしていきました。

●郷土の新たな発展を願って息づく精神

安陪庄作・墓と灯籠 庄作は明治30年、60歳で亡くなりました。村民は、庄作の功績に感謝して墓前に石灯籠1対を建立しました。安陪庄作の小伝編纂のおり、三奈木黒田家の黒田一雄氏は、彼の業績を讃え、易経の中から取った、人知を開発し事業を成し遂げた意味の「開物成務」の書を贈りました。庄作が取り組んだ養蚕業は、太平洋戦争に伴う食料難や化学繊維の発明などによって、この地方から姿を消してしまいました。しかし、庄作が残した「開物成務」の精神は息づいています。
 三奈木地区の体育祭では、

自然のふところ溢るる恵
土にしたたる熱汗こって
垂穂豊かに桑園続く
県下の養蚕始めしところ
三奈木三奈木先覚の村
古武士の山河に意気なお宿る
救え難局振るえよ農村…

と歌い続けることでしょう。

【参考資料】甘木市史

(広報あさくら平成20年1月1日号掲載)

 

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