◆戦国時代を翔けた 秋月 種実 (編纂委員・三浦良一) |
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秋月氏は種雄を初代として、鎌倉時代の初めから400年近く、秋月の古処山城を拠城として、朝倉地方を領有支配した武家です。 その16代・秋月種実は、少年期には毛利元就に庇護されるなど苦労をしましたが、成長してからは北九州の有力な戦国大名として活躍しました。 しかし晩年は、豊臣秀吉の命令によって日向国高鍋の地に移封されるという波瀾の生涯をおくった人物です。 |
●毛利元就のもとへ
種実は、秋月氏15代・種氏(文種)の二男として天文13年(1544年)に生まれ、幼名を黒帽子といいました。時は戦国時代のただ中です。彼が13歳の弘治3年(1557年)、豊後大分の大友宗麟の軍勢が秋月に攻め寄せ、秋月方は奮戦むなしく敗れて種氏と嫡男の晴種は討ち死にし古処山城は落城しました。このとき種実と弟2人は家臣に守られて城を脱出し、周防山口の毛利元就を頼って落ち延びました。
毛利元就の庇護を受けて成長した種実は、数年後に元就の支援を受けて秋月に戻り古処山城を奪還しますが、その時期や経緯については諸説があって明確ではありません。種実帰還との報せを聞いて旧家臣が参集し、秋月氏は再び勢いを盛り返しました。
●大友宗麟との戦い
永禄10年(1567年)、大友氏の重臣だった筑前宝満城の高橋鑑種が大友宗麟に反旗を翻しました。このとき種実は高橋鑑種に味方して挙兵しました。このことに腹を立てた宗麟は秋月討伐のため2万余の大軍で攻め寄せてきました。これに対して秋月勢は果敢に迎え撃ち奮戦しました。さらに、休松(現在の朝倉市柿原付近)にあった大友軍の本陣を奇襲攻撃して勝利し、大友勢を筑後川近くまで撤退させました。この秋月方の勝利は23歳の青年武将秋月種実の実力を近隣の武士たちに認識させ、種実の名声は上がりました。このあと種実は大友方と一時和睦して宗麟に従属しますが、天正6年(1578年)、日向国耳川の合戦において大友軍が薩摩の島津軍に大敗して大友宗麟の勢威が衰えると、種実は再び反大友の旗を掲げて大友勢に挑戦し各地で合戦を繰り広げました。大きな戦いでは田川の猪膝合戦(天正8年)や筑後川原鶴合戦(天正9年)などがあります。
●有力な戦国大名に成長
このころ、薩摩の島津義久が北部九州にまで勢力を拡げてきました。種実はこの島津氏と同盟して、筑前や豊前の大友領内に進出していき、やがて筑前、筑後、豊前3カ国内において11郡を手に入れ、石高36万石に相当する領地を有する有力な戦国大名に成長していきました。しかし大友方の名将立花道雪や高橋紹運に阻まれて、商業都市博多に進出できなかったことは種実の痛恨事でありました。
種実は広大になった領土に秋月二十四城と呼ばれる支城を築き、重臣を配置して防備に当たらせ領民の統治をさせました。
しかし彼の領国行政についての記録は何も遺されていません。ただキリスト教の布教を許しキリシタンを保護したことが『耶蘇会日本通信』のなかに載っています。
また肥前の龍造寺隆信が島津氏と対立したときには和議の仲介をしたり、近隣の国人衆(地方の小領主)をまとめてその盟主になるなど外交的な手腕も持っていました。
●豊臣秀吉の九州征伐
天正15年(1587年)、全国平定を目指す豊臣秀吉は、大友宗麟の要請を受け太閤の威令に服従しない島津義久を討伐するために、20万余の大軍を率いて九州に出兵してきました。このころ、種実は領主の座を嫡男の種長に譲って隠居し名前も宗全と改めていましたが、采配の実権は種実が握っていました。秀吉の九州征伐に対して秋月方の対応が重臣を交えて評議されましたが、秀吉軍の情報を持たずその強大さを知らないまま、島津方との盟約を尊重して秀吉軍と戦うことを決しました。このとき恵利内蔵助暢尭は秀吉軍と戦うことは無謀だと主張しましたが聞き入れられず、妻子を刺殺して切腹し自らの命を投げ出して主君を諫めるという悲劇も起こりました。
豊臣秀吉との決戦を覚悟した秋月勢は近隣の国人衆の応援も得て2万人余が古処山城を中心に陣を構えました。やがて秀吉の大軍が古処山の北側一帯に着陣しました。その軍兵の多さと軍装の華やかさに圧倒され、忽然と出現した「一夜城」に肝を潰して、秋月勢は一気に戦意を喪失してしまい、種実、種長親子は墨染衣に身をつつみ秀吉の前にひれ伏して降伏しました。このとき天下の名器と賞された肩衝茶入『楢柴』を献上したので、秀吉が機嫌を直し、種実、種長親子は死罪を免れたといわれています。秀吉は秋月に3日滞在したのち、島津討伐に軍勢を進めますが、このとき種長は島津攻撃の先鋒を命じられて手勢を率いて従軍しました。
●日向高鍋に移封
天正15年(1587年)5月、島津義久が降伏して豊臣秀吉の九州平定は完了しました。秀吉は博多に戻って市街の復興を命じるとともに九州諸大名の知行割を決めましたが、この中で秋月種長は筑前、筑後、豊前の領地を没収されて、日向国財部(高鍋)に500町(3万石)を頂戴して移封(領地替え)を命じられました。種実は一族や家臣とともに日向の新封地に移りますが、いよいよ秋月を離れるときに、波瀾の生涯を振り返り「知行は十石でもよいから秋月に留まりたい」と嘆いたという十石山の伝説があります。秋月氏は種長を祖とする高鍋藩3万石の藩主として江戸時代まで存続しますが、九州からの雄飛をも夢見たであろう種実は、失意の晩年を福島(串間)の御館で過ごし、また人質のような立場で京都や大坂で暮らすことも多かったようです。秋月を去って9年後の慶長元年(1596年)9月に京都で病没しました。享年52歳、墓は京都の大徳寺と串間の西林寺にあります。
秋月氏が移封された関係で、福岡県甘木市と宮崎県高鍋町との間に、昭和42年(1967年)に姉妹都市の縁組みがなされました。朝倉市になってもこの縁組みは継承され、文化、スポーツ、その他多くの分野で両方の市民・町民の交流が活発に行われています。
【参考資料】
吉永正春著/九州戦国史
三浦末雄著/物語秋月史・上巻
安田尚義著/高鍋藩史話
甘木市史・上巻
(広報あさくら平成21年7月1日号掲載)