表示色
文字サイズ変更

ここから本文です。

ふるさと人物誌26 久喜宮に水田を作った 「都合 徳太郎」(とごう とくたろう) 

登録日:2011年03月21日

ふるさと人物誌ロゴ
◆久喜宮に水田を作った  都合 徳太郎
 

(編纂委員・平田利一)

 杷木久喜宮に地域の人々から祇園様とよばれ大事にされている須賀神社があります。
 その境内に都合徳太郎の頌徳碑が建っています。

●読者からの一通の手紙
 『私が小学校のころ、父から聞いた話ですが、明治のころ久喜宮は畑ばかりで田んぼがなく米がとれず困っていたそうです。そのころ、久喜宮の都合徳太郎という方が大変な努力をされ筑後川から水を引き久喜宮に水田を作られ、おかげで村民は米食がされるようになったと聞いています。いま、時代の流れとはいえその田園が次第に消えようとしています。調べて、みなさんに知ってもらいたくお願いいたします』
 とのお手紙が「ふるさと人物誌事務局」に寄せられました。お手紙に感謝しながら、都合徳太郎を紹介します。
 

●25歳で村会議員に
 都合徳太郎は明治4年(1871年)、久喜宮古町に都合惣兵衛の長男として生まれました。久喜宮小学校卒業後、福岡商業学校に進み、明治21年(1888年)から福岡県立勧業試験場農業実習専攻科で学んでいます。
 明治24年に近衛歩兵第二連隊に入隊し同27年に日清戦争に参加し郷里にもどりました。その翌年には久喜宮発展に尽力していた父・惣兵衛が亡くなりました。 徳太郎は父の後ろ姿を見て育っていたのでしょう、明治29年(1896年)に久喜宮村村会議員に当選し地域のために活躍しています。25歳の若さでした。
 そして26歳で朝倉郡郡会議員に当選し、地域産業発展に努力しています。28歳のときには、志波葉煙草専売管内(福岡県一円と大分県玖珠・日田二郡)の煙草製造者組合長に就任し、品質改良、生産拡大にとりくんでいます。

 

●土師炭坑経営
 明治37年(1904年)、33歳のとき、宝珠山村(現在の東峰村)で土師炭坑の経営にのりだしています。当時地元の人は露出している石炭を採掘し家庭用に利用していました。徳太郎は採掘権を手に入れ産業として発展させていった最初の人物です。明治45年に伊藤伝右衛門が土師炭坑を統合買収し、伊藤合名会社宝珠山炭坑として本格的な炭坑開発をはじめるまでの8年間、炭坑経営をしています。
 

●当時の久喜宮村の状況
 久喜宮は北と西を山にかこまれ、東は杷木村と境し、南は筑後川に沿っているにもかかわらず、大字久喜宮、大字若市は粟や唐芋の産地として有名でした。しかし、水利の便が非常に悪く、また水田が極めて少ないため、食料も他村から購入しなければ不足する状態だったそうです。
 徳太郎の父・惣兵衛や村内有志は、筑後川の水の利用を考え協議を重ねていました。しかし筑後川水面と畑地の高低差が約6m以上あり、筑後川の水を引くためには杷木村の上流から5km以上も杷木村を横切って掘り切り、または暗渠工事をしなければなりませんでした。このためこの大工事案は経費負担で行き詰まり、実行不可能という結論になります。溜池設置案も位置や水量の問題で完全ではなく、揚水機設置の案については、当時の機械技術が幼稚で不完全だったため、望む効果は期待されず消えていきました。
 父・惣兵衛は「久喜宮に水田を作りたい、村を豊かにしたい」との思いが強く、満々と水をたたえている筑後川を見てはこの水を引くことが自分の一生の仕事と取り組んでいました。しかしその思いがかなわぬまま、明治28年(1895年)に他界しています。その後、耕地整理も筑後川水利用の問題も立ち消えの状態になっていました。
 

●委員長になって水田化へ
 炭坑経営の多忙の中に、徳太郎は父の意思を継ぎ、耕地整理・水田化の研究をひそかに続けていました。揚水機で筑後川の水を汲み上げる案をもって立ち上がりました。自ら委員長になって一大事業を開始します。徳太郎35歳のときです。
 工費の調達、農業組合員の説得、官庁への陳情、筑後川水利組合(山田堰関係)との交渉、性能のいい揚水機の研究、視察など不眠不休の努力がみのり、明治39年(1906年)12月に工事が始まり、翌年7月に工事が完成し、59町7反歩の整然とした水田が出来上がりました。
 愛知県新川耕地整理組合が使用していたドイツ製揚水機を設置し、筑後川の水はとうとうと久喜宮の整理田に流れ始めたのです。
 水路の両側は玉石積みの石垣で、久喜宮小学校の前を通り、旧街道沿いに街並みを通り左折して現国道沿いに原鶴まで続いています。約6kmに及ぶ大工事でした。
 100年以上たった現在も久喜宮揚水土地改良区の管理・改良で、国道386号線の浜川信号機近くにあるコンビニエンスストア裏の取水口からとりこまれた筑後川の水は、全長15kmにわたる水路を通り久喜宮地区の整理田102町を潤しています。
 この総工費は現在の価格にすれば10数億円という巨額と考えられ、農業組合員の負担も大変なものであったと思われます。
 整理当時は土地が堅く植えつけにも非常に困難だったそうです。米の収穫量も現在の半分程度で、農業組合員の中には負債の返済に困り泣く泣く田んぼを手放さなければならない人が多くあったと古老は語っています。徳太郎の頌徳碑が建立されたのは工事完成後23年を経た昭和5年(1930年)のことです。
 

●産業開発に一生を捧げる
 その後、徳太郎は久喜宮村を離れ、大正2年(1913年)に朝鮮へ渡り、葉煙草栽培をめざし未開墾地の開墾にとりくみ、その功績を賞されて開墾地と賞状が贈られています。大正12年には一連の産業振興に尽くした功績が認められ朝倉郡長から金時計一個が贈られたとのことです。
 朝鮮から戻った徳太郎は、熊本県球磨郡川村(現在の人吉市)で耕地整理委員長として同村の耕地整理にたずさわっています。さらに雑木林を開墾し水田化する案をつくり、村当局と協議に入っている途中で、福岡市今泉で昭和8年(1933年)5月、62歳の生涯を終えました。
 若いころから各地域の発展にとりくみ、一生を地域開発に捧げた都合徳太郎。産業開発の偉人として忘れることができない人物です。
 

【参考資料】
杷木町史

(広報あさくら平成21年7月1日号掲載)

このページを見た方はこんなページも見ています

    このページに関する
    お問い合わせ先

    総務部 人事秘書課
    お問い合わせフォーム

    このページに関するアンケート

    このページは見つけやすかったですか?
    このページの内容はわかりやすかったですか?
    このページは参考になりましたか?