■秋月の生んだ女流漢詩人 原采蘋 (編纂委員・川端正夫) |
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原猷(采蘋)は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した、秋月出身の女流漢詩人です。寛政10年(1798年)4月に秋月の原家に生まれ、61歳の生涯を萩で閉じるまで、漢詩による表現の追求に、父の詩業の宣揚に、父母への孝養に一身を尽しました。平成21年(2009年)で、亡くなって150年になります。 |
●采蘋が生まれ、活躍した時代
采蘋の生きた江戸時代後期の日本は、近世日本文化が最高潮に達しようとする時代でした。秋月藩では、天明5年(1785年)に日向(宮崎)高鍋の秋月氏から迎えた8代藩主長舒が強力に学問芸術の振興を推進し、創建されて10年の「稽古館」の教育体制を強化し、福岡本藩で官学(朱子学)派に追われて失脚した大学者である亀井南冥(徂徠学派)を支援・庇護するなど文化的機運が高まったころで、采蘋が生まれたのは、まさにその機運の真っ直中でした。
号(雅名)の「采蘋」は中国最古の詩集「詩経」の「召南」にある、「若くて美しい娘が神に供える浮草(蘋)を採(采)る情景」を歌った詩(「于以采蘋…」)から採られました。
●采蘋の家族
采蘋の父・原震平(古処)は、秋月の手塚家に生まれ、その学問優秀の故に稽古館の教授原百助(坦斉)の養子になった人で、藩命により18歳で福岡本藩の藩校である西学問所「甘棠館」に入学、その学頭・教授で大学者であった亀井南冥の下で学んだ学者・漢詩人です。
古処は南冥の学問を継承して郷里秋月に帰り、父・坦斉の跡を継いで稽古館の訓導・教授となり、藩主長舒・長韶に重用されて秋月藩の教育文化の基を築きました。
采蘋の母・雪(瑤池)は秋月の町屋の出で、佐谷氏から原家に嫁ぎました。詩を解する教養のある美人で、病弱な子どもを抱えながら家塾「古処山堂」の運営・子弟の教育に尽力しました。
采蘋には5歳上の兄・瑛太郎(白圭)、弟・瑾次郎(公瑜)と、幼くして亡くなった二人の妹がいました。
一家の墓は秋月の西念寺にあり、古処の大きな墓は晩年の采蘋が建てたもので、表が頼山陽書、左面に采蘋書の廣瀬淡窓の詩が刻まれています。采蘋の遺髪を納めた小さな墓は父の右手前に、父母・兄弟の方に向かって慎ましく立ち、古処・采蘋に学んだ吉田平陽の書いた墓誌が刻まれています。曰く、「雌而不伏、千里独行、秀句日出、山移水迎、茫々天下、誰走弋者」(女性であったが身を隠したりしなかった。日本の山河を一人で歩き巡り、素晴らしい詩をたくさん作った。この広い世界のだれも彼女を捕まえることはできなかった)。
●父・古処の失脚と采蘋への期待
文化9年(1812年)、采蘋の父・古処は江戸で突然、稽古館教授・納戸頭の職を解かれ、帰秋以後、隠居して自由な一詩人としての活動を始めます。兄・白圭らは病気がちで、漢詩人古処の大きな期待は采蘋に集中しました。
采蘋は、隠居して秋月の家塾「古処山堂」、また甘木の詩塾「天城詩社」を指導・経営する父を助けて、漢学・漢詩の道にますます精進するようになります。古処の学識を慕って参集した並み居る秀才たちと切磋琢磨しながら学力と才能を伸ばし、時に父の代講を務めました。
隠居後の父・古処は、采蘋を連れ、各地の名だたる文人・学者たちと交わり、漢詩の贈答による交流をしました。日田で私塾「咸宜園」を開いた廣瀬淡窓を訪れたとき、22歳の采蘋はその席で大いに詩を披露し大酒を飲んだそうで、淡窓はその詩才と教養を高く評価し「その様は磊磊落落、男子に異ならず、又能く豪飲す」と日記に書いています。
采蘋の詩の世界は広く、自由でした。豪快で勇ましい詩も妖艶で華やかな詩も作りました。初期の柔らかい詩の一つを見てください。
◎海棠
帯紅色深浅
嬌在半開時
仙艶誰相似
大眞酔後姿
(現代詩訳・吉木幸子)
紅の帯の色、濃くまた浅く、半開の時がなまめかしい。この世ならぬあでやかさは、だれに似たのだろう。快く酔った人の、うしろ姿だ
※海棠…春に濃いピンクの緋寒桜に似た下向きの花をつける木
●女流漢詩人 原采蘋
漢詩は漢字だけで詩情を表現する、いわば中国語の詩です。江戸時代後期から明治時代ごろまでは特に盛んに作られました。当時の本格的な漢学者・漢詩人はほぼ男性で、原家のように「詩人」として作詩を家業とする人は少ない時代ですから、女流漢詩人原采蘋は、極めて特異な存在でした。
采蘋は文政8年(1825年)、27歳のとき、江戸(東京)を目指し家運を賭けて東上の旅に出ます。父・古処は「不許無名入故城」(無名にして故城に入るを許さず)と極めて厳しい励ましの言葉を壮途の餞として送りました。采蘋にとってこの父の言葉は生涯重要な意味を持つことになります。
采蘋の没後100年を記念して秋月城跡の「梅園」奥に建てられた詩碑に刻まれた詩「此去単身又向東、神交千里夢相通、家元天末帰何日、跡似楊花飛任風」(此処を去って、単身また東に向かう。神交千里、夢相通ず。家は元天末、何の日にか帰る。跡は楊花に似て、飛んで風に任す)は、このころの作かと思われます。
●父の死、再び江戸へ
家督を継いでいた兄・白圭も病のため退隠し、原家は養子を迎えて辛うじて存続するという窮状の中、父・古処は文政10年正月に61歳で亡くなりました。
采蘋は一家のこの窮状を打開すべく再び出郷しますが、兄弟も相次いで病没してしまいます。男装の采蘋は各地で多くの著名な文人らと交わり、気丈な詩を残しながら1年半をかけて東上し、江戸は浅草の称念寺に寄寓することになります。
以後、采蘋は当時の情報・文化の中心であった江戸で20年に及ぶ歳月を過ごし、詩人・書家として経済的にも自立しつつ修練を積み、父・古処の詩集出版を目指します。江戸に落ち着いた采蘋は、老いた母・雪を江戸に迎えようと秋月藩庁に許可を願い出ますが許されず、嘉永元年(1848年)、50歳のとき、老いた母のために秋月に帰郷します。
●帰郷と再再出郷、最後の旅
采蘋は母と二人で秋月から下座郡屋永の専昭寺に、やがて御笠郡山家(現筑紫野市)に移り、塾「宜宜堂」を営んで青少年の教育を始めます。山家は日田街道と長崎街道が交わる宿場町で、各地から評判を聞いた若者が集まったようです。
そのころ、江戸での20年の経験を語って「東都の人物は皆繊細で技巧は優れているが、大海の鯨を押さえられる程の人はだれもいなかった」と言ったそうです。何とも頼もしい老先生であったことでしょう。
倒幕の挙兵(生野の変)をしたものの、幕府に鎮圧され、明治維新の先駆けとなって29歳で死んだ秋月藩士戸原継明(卯橘)も、15歳で「宜宜堂」に入り、采蘋晩年までの10年間、親しく指導を受けた人物です。
采蘋は嘉永5年(1852年)、母・雪の死後、旅と作詩の生活を再開します。安政6年(1859年)春、再び父・古処の詩集出版を期して江戸に向け出郷し、その途上、長州(現在の山口県)萩で10月1日に病死しました。采蘋の墓は萩の光善寺にあり「孝愍齋女采蘋君墓」と刻まれています。
采蘋は 「丈高く豊満で、瓜実顔の美人であった」と伝えられています。関東で身につけた絹織を母のために自ら織って「贅沢」といわれたときも、最後の旅への出発前に西念寺の父母の墓を大きくして藩庁から分不相応とされたときも、自らの働きで親に孝養を尽して何が悪いと敢然として論破した采蘋は、光善寺の墓銘にあるように、また戸原継明もいうように、精神的には一貫した「至孝」の人であったといえるのではないでしょうか。
【参考資料】
・原采蘋先生顕彰会(山田新一郎他)「原古処、白圭、采蘋小傳及詩鈔」(昭和26年)
・古賀益城「あさくら物語」
・田代政栄「秋月史考」(昭和26年)
・吉木幸子「原采蘋の生涯と詩」(平成5年)
・三浦末雄「物語秋月史」
・甘木歴史資料館だより「温故」43号(平成18年)
(広報あさくら平成22年2月1日号掲載)