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ふるさと人物誌36 近代日本哲学の父 「井上 哲次郎(巽軒)」(いのうえ てつじろう(そんけん))

登録日:2011年03月21日

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◆近代日本哲学の父 井上 哲次郎(巽軒)
 

(編纂委員・川端正夫)

 井上哲次郎(号は巽軒)は、安政2年(1855年)に太宰府の医者・船越俊英(後に富田家を継ぐ)の三男に生まれ、朝倉市甘木で幼少期を過ごしました。日本人初代の哲学担当の東京帝国大学教授として東西(東洋・西洋)の哲学を研究し、多くの人材を育て、その著作で社会に大きな影響を与えた学者です。
 「哲学」とは「人間とは、世界とは何か。美しいとは、良いとはどういうことか」などの問題を考える学問です。
 哲次郎の学問の基礎は太宰府で、また甘木で学んだ漢学(儒学)にありました。彼は天神様(菅原道真)の再来ともいうべき秀才で、西洋哲学・中国哲学・仏教学・国学と、その学問の幅が広く深いこと、また漢詩・新体詩(近代詩)など文学表現にも才能を発揮したことなど、近代日本の草創期に聳える巨人的な学者文化人でした。
 哲次郎が活躍した明治時代から昭和初期は近代日本国家が欧米列強に伍して確立していく時代でした。彼が自分の哲学の実践のために唱導した「国民道徳論」に見られる強烈な「天皇制国家主義」「日本民族主義」は、戦後日本の思想界で強く批判されましたが、今日改めて評価すべき人物であると思われます。


 

 

●漢学修業
 哲次郎の勉学は、太宰府で6歳のころ父から教わった習字・読書、そして中村徳山先生から習った「大学」「中庸」「論語」「孟子」(四書)の素読に始まりました。
 哲次郎は家庭の事情で9歳から13歳までの4年間を甘木町で過ごすことになります。幕末の甘木町には、日田の広瀬淡窓が開いた私塾「咸宜園」で学んだ佐野東庵の子息の佐野文洞がいて、高原町で医業を営みながら私塾「梅西舎」を開いていました。哲次郎は佐野文洞から「詩経」「書経」「左伝」などの経書(儒教の根本テキスト)を学びました。
 哲次郎の哲学研究の「志」は、太宰府と甘木での「論語」をはじめとする漢学(儒教)学習に発したもので、これが後に西洋・インド・中国・日本など世界の哲学を研究する基礎となったのです。

 

●英語を学ぶ
 時は明治維新です。哲次郎は、福岡で英語の勉強を始め、明治4年(17歳)から3年間は長崎の「廣運館」で本格的に勉強し、明治8年に、成績優秀で「東京開成学校」に送られました。「秋月の乱」前夜のころです。
 「東京開成学校」は明治維新政府が西洋人教師を雇って東京神田に設立した「大学南校」を引き継ぐ西洋学学校で、後の東京帝国大学の前身です。全国から優秀な学生を集めて勉強させ、ヨーロッパへ留学させて、近代日本の建設を急ごうという明治国家の方針によるものです。寮生活をしながら懸命に勉学に励んだ哲次郎は2年間で予科を卒業し、明治10年(1877年)9月、創立されたばかりの東京大学文科に第一期生として入学します。23歳の秋でした。
 明治13年(1880年)に卒業するまでの3年間、哲次郎は寮生活をしながら身につけた英語・漢語を駆使して東西の哲学・文学・政治・経済などを本格的に学びます。
 哲次郎に大きな影響を与えたのは、後に日本をはじめ東洋美術評価の原動力になった、当時20代半ばのアメリカ人学者で哲学担当のアーネスト・フェノロサ、シェイクスピアを教えた英文学のホートン、漢学の中村正直、国学の横山由清、仏教学の原坦山などでした。

 

●「新体詩抄」と「哲学字彙」、「孝女白菊詩」
 在学中に福岡の医学者・井上鉄英の養子となった哲次郎は、卒業後、文部省に勤務し、結婚して家庭を持ちます。明治15年には東京大学助教授として「東洋哲学史」の研究・執筆・講義をしながら、文芸の創作、哲学の研究に専念。日本初の哲学用語辞典「哲学字彙」を刊行し、西洋の哲学用語と日本語を対照させ、まだ基本的な哲学用語が十分に整っていなかった日本語の整備を行います。
 自然・経験物の背後の世界についての議論を指す「メタフィジックス」(英語:metaphysics)を「形而上学」と表現するなど、西洋語に対応させて「意識」「人格」「絶対」「美学」「倫理学」などの日本語の訳語を作りました。この「哲学字彙」は2回改訂増補され、当時の学生に活用されました。
 明治15年(1882年)、外山正一・矢田部良吉らと英語の詩を明治の大和言葉に訳して出版した「新体詩抄」は日本の近代詩の先駆けになりました。また、卒業後直ぐに留学できなかった憤まんの中で作った漢詩「孝女白菊詩」は落合直文によって大和言葉に訳され「孝女白菊の歌」として大評判となり、ドイツ語、英語にも翻訳されました。
 この詩は、西南戦争のときに行方知れずになった父を慕う娘の悲嘆を表現した漢詩(フィクション)で、冒頭「阿蘇山下荒村晩、夕陽欲沈鳥争返、無辺落木如雨繁、隔水何処鐘音遠…」とあるのを落合が「阿蘇の山里秋ふけて、眺めさびしき夕まぐれ、いずこの寺の鐘ならむ、諸行無常と告げわたる…」と訳し、親しみやすい「新体詩」として当時の人々の涙を誘い、阿蘇には記念碑ができるなど国民的な評判を博しました。

 

●官命によるドイツ留学、ベルリン大学附属東洋語学校講師
 明治17年(1884年)2月、哲次郎は、かねて念願であった哲学研究のための留学(ドイツ)を命じられます。30歳の春でした (5歳年下の森鴎外が陸軍からドイツ留学を命じられたのも同じ年で、文学好きの両人はドイツで一緒に観劇したこともありました)。
 哲次郎のドイツ留学は、6年10カ月にわたりました。ベルリン大学が主な在籍地でしたが、ハイデルベルク、ライプチヒ、ハレ、イエナ、フランクフルトなどドイツの各地の大学の教授の著書を読み、講義を聴き、自宅を訪ねて議論しています。
 明治19年にはパリのコレージュ・ド・フランス(フランスの最高学府)のテーヌ(哲学・歴史学)やルナン(宗教史)を、同21年夏にはイギリスに渡ってハーバート・スペンサー(社会学者)やマックス・ミューラー(東洋学)など、著書に親しんだ学者たちを訪問しました。親しく師事したのは、ハイデルベルクのカント研究で名高い哲学史家クーノー・フィッシャー、ベルリン大学の古代哲学史家ツェラーでした。
 留学後半の約3年間はベルリン大学附属東洋語学校で中国人やインド人の教師と共に教鞭を執り、日本語のみならず、日本について、また東洋哲学についての講義を行い、東洋思想を西洋で再確認するとともに、多くの西洋人日本学者・東洋学者を育てました。

 

●東京帝国大学哲学教授、晩年の日本儒教研究
 明治23年(1890年)10月に帰国した哲次郎は、東京帝国大学の哲学の教授を命ぜられ、大正12年(1923年)3月に68歳で退職するまで33年の間、大学での研究と教育に務めました。明治30年(1897年)にはパリで開催された万国東洋学会に派遣され、帰国後、43歳で東京帝国大学文科大学長に就任して東洋系の哲学研究の体制強化を図るなど、大正・昭和にかけて国の文化・教育行政の中枢にありました。
 晩年に至るまで、「陽明学」「古学」「朱子学」など日本の儒教哲学諸派の研究に心血を注ぐなど、幅広い視野の下での重要な哲学研究を続けつつも、「キリスト教」対「天皇制国家(国体)」など、様々な論争にも国民道徳の立場から活発に発言し、賛同と同時に多くの批判・誤解も受けました。大正14年(1925年)、「我が国体と国民道徳」を著した中に天皇への「不敬」(無礼)があるとして非難攻撃され、公職を辞して謹慎せざるを得なかったり、晩年に暴漢に襲われ右目を傷つけられたりしたこともありましたが、何があっても挫けず、快活に、喜んで哲学の研究・教育・普及に精進しました。
 哲次郎は、昭和19年(1944年)12月7日、太平洋戦争末期の米軍空襲下の自宅(文京区小石川表町)で亡くなりました。90歳でした。自宅は空襲で蔵書とともに焼けましたが、書庫だった建物(蔵)が残り、現在東京都の史跡として公開されています。墓は東京都豊島区「雑司が谷」にあります。

 

【参考資料】
・井上哲次郎「懐旧録」昭和18年、春秋社松柏館
・井上哲次郎「井上哲次郎自伝」昭和48年、富山房
・井上哲次郎「井上哲次郎集1~9」平成15年、クレス出版

 (広報あさくら平成22年10月15日号掲載)

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