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ふるさと人物誌37 三奈木黒田家を救った忠臣 「鬼木佐太夫宗直」(おにきさだいふむねなお)

登録日:2011年03月21日

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◆三奈木黒田家を救った忠臣 鬼木佐太夫宗直
 

(編纂委員・安陪悟)

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利に終わります。この戦いで軍功のあった黒田長政は、家康から筑前国52万石の領地を与えられます。長政には、黒田二十四騎と呼ばれる武将がいて、数々の戦いで武勇を発揮します。その中の一人が、後に三奈木黒田家初代当主となった黒田一成です。
 筑前国を拝領した福岡藩初代藩主黒田長政は、黒田二十四騎の面々に万石・千石以上を与えますが、二代藩主忠之、三代藩主光之のころになると、その多くが減禄、除封されます。しかし一成は、三奈木を中心に1万2千石の領地を与えられ、その後も加増が続き、幕末には1万6千石の大身となります。
 また、福岡本藩の筆頭家老を務め、さらに大老を命じられ、藩の政務の中心となって働き幕末を迎えます。このように江戸幕府が開かれてから幕末まで(1603年~1868年)の長い間、三奈木黒田家が断絶しなかった理由として、家臣たちの努力を見逃すわけにはいきません。
 今回は、特に三奈木黒田家三代当主一貫公の時代に重臣を務め、諫死(主君や目上の人に向かって、欠点や過失を、死をもっていさめ反省させること)をもって生涯を終えた、鬼木佐太夫宗直について紹介します。


 

 

●宗直の生い立ち
 鬼木氏の発祥は、豊前国上毛郡鬼木村(現在の豊前市鬼木)です。200町を領する城主でしたが、黒田孝高(長政の父)が豊前に入国したとき、鬼木宗正は手勢500余人を率いて黒田長政勢と戦い討ち死にします。その後、遺児は縁あって三奈木黒田家の家臣となります。
 宗直は、鬼木惣左衛門の嫡男です。福岡に出て三奈木黒田家二代当主一任、三代当主一貫に仕え、元禄のころは一貫公の目付役を務めました。寛文12年(1672年)6月、桑原村に移住を命じられ、下座(現在の三奈木、金川、福田、蜷城の一帯)の目付役の仕事をします。さらに小隈村に住んでいた松田某なる家臣が暇を出されたので、宗直は屋敷替えとなり、桑原村から小隈村に移住します。
 宗直は、文武に優れた人物で、日夜忠勤に励み、三奈木黒田家を支えました。

 

●宗直、主君に諫言
 早朝の稽古を終え、空を仰げば一片の雲もなく快晴のある日。それとは裏腹に宗直の心は晴れませんでした。一貫公に関して福岡藩から入った情報が気になって仕方がなかったのです。
 一貫公は文武両道に優れていましたが、そのことがかえって禍をなし、おごり高ぶり人を見下す心がありました。家臣の中には一貫公を憎み、藩主に事実を曲げて告げ口する者もいて、藩主も一貫公を政務から遠ざけようとします。また、無用の用金を申し付けるなどの悪評も届きました。
 このような悪評を知った宗直は、このまま放置しておくと三奈木黒田家の存亡にかかわる一大事に繋がると考え福岡に出向きます。そして宗直は、在福の留守居(家老)たちに、諫言すべきと申し出ました。
 在福の家臣たちは、宗直の諫言を了承しますが、自信が強く容易に人の意見を聞かない一貫公を恐れ諫言する者はなく、月日がいたずらに過ぎていくばかりでした。それどころか、一貫公の言動はますます悪くなります。
 宗直は、再度福岡に赴き、直接一貫公に拝謁し直言します。一貫公の反省すべき点を27カ条にまとめ諫言したのです。
 一貫公は、すべてを聞かぬうちに「家来の分際で何を言うか」と刀の柄に手をやるほど激怒します。しかし、丹田に力を入れ諫言する宗直に忠節を感じ、態度を和らげ「以後言動を慎む」と改心の情を示します。
 宗直は安堵し、忠勤を誓って退出します。宗直は、直ちに在福の家臣たちと主家を盛り返すための協議を行いますが、家臣の中には改革を喜ばぬ者もいて、話し合いはまとまりませんでした。

 

●諫死を決意し帰郷
 宗直は「この諫言は私利私欲から出たのではなく、三奈木黒田家のさらなる繁栄を願ってのこと。もし断絶ともなれば、多くの家臣が路頭に迷うことは必定」と、至誠をもって家臣に対します。
 しかし、家臣の中には、主君の悪事を助長する者や、宗直の諫言は売名行為に過ぎぬと陥れようとする者もいます。宗直は、武士が身を賭して行った諫言が受け入れられないと感じ、この上は諫死をもって三奈木黒田家を救うしか道はないと決意し、在所・小隈村に帰ります。
 小隈村に帰るや、宗直は妻子に今までの経緯を話しました。「武士として己の道を貫くため、止むに止まれぬこの心情を理解してくれ。そなたたちまでの道連れの諫死、これも武士の家に生まれた者の宿命」と、苦悩に満ちた表情で話す姿に、黙って聞いていた妻子たちも、共に死ぬことを決意します。
 夕闇の中、家族全員が正装し、死別の宴を催しました。その後、宗直は妻と養女と二人の息子を刺殺し、己も割腹します。時に元禄7年(1694年)5月16日、田植えの時期でした。
 宗直が自刃したころ、福岡城三の丸にある一貫公の上屋敷の寝所に宗直が突然現れ「御目覚を、鬼木佐太夫宗直罷出候」との声に、一貫公夫妻は驚き目を覚ましました。宗直が麻裃に正装した姿で平伏し「先日の諫言、受け入れられる意志がおありか、再度お伺いに参りました」と真剣な眼差しで問いかける姿に、一貫公も姿勢を正し「先日そなたに申したこと、いささかも間違いない」と答えました。宗直は深々と平伏し、突然の訪問の無礼を詫び姿を消します。
 その同時刻、一貫公は、上屋敷の玄関口に馬が嘶くのが聞こえるので確かめると、宗直の愛馬が槐の木の前に留まっていました。城門は閉ざされ、上屋敷の門も施錠されたまま、宗直の愛馬はどうして駆け込んできたのか、みな驚きました。
 すると翌日、一貫公のもとに、鬼木家の惨事の知らせが届いたのです。直ちに福岡藩から鬼木家へ検視役が発ちます。検視結果の後、鬼木家は家名断絶、食禄没収となりました。

 

●その後の鬼木家、三奈木黒田家
 その後、宗直を陥れようとした庄林要人夫妻が原因不明の熱病で急死し、嫡男も狂死しました。さらに諫言を喜ばなかった家臣も次々と斃れるという変事がたびたび続きます。三奈木黒田家も、一貫公の跡を継いだ一春公が早死にする不幸が起き、次男・一利公が五代目当主となります。
 一利公は、宗直の死を悲しみ精忠を賞し、宝永6年(1709年)9月、桑原村に一社を創建し、宗直一家5人を祀ります。この社は、最初のころ「宗直権現」と呼ばれていましたが、一利公により「五所権現」と尊称され、武運の神・熱病の神・雷除けの神として信仰され現在に至っています。
 また、鬼木家は、天明6年(1786年)に再興が許され、桑原村に屋敷を賜り、宗直と同様、三奈木黒田家の家臣として、尽忠をもって幕末まで仕えます。
 三奈木黒田家は、一貫公自身が身を慎み家名を盛り返し、以後、主君と家臣が心を一つにし、宗直の諫死を教訓として文武両道に励みます。
 特に武術では、三奈木黒田家中から始められた「真心陰流兵法」があり、桑原村の片岡伊兵衛秀安や小隈村の中村権内安成、桑原村の楓傳左衛門重房の達人が出ています。また、夢想権之助勝吉を祖とする神道夢想流杖術を、三奈木「走下組」「帝釈寺組」に伝授し、強力な武士集団を形成します。
 三奈木黒田家は、福岡藩にとってなくてはならない存在となり、江戸時代260余年間の長きに渡り続きました。

 

【参考資料】
・古賀益城編「あさくら物語」
・郷土史金川編纂委員会「郷土史金川」

 (広報あさくら平成23年1月15日号掲載)

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