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ふるさと人物誌39 『大西郷全傳』の著者 「雑賀 博愛」(さいが ひろよし) 

登録日:2011年04月01日

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◆『大西郷全傳』の著者  雑賀 博愛
 

(編纂委員・松本憲明)

 ●生い立ち

 雑賀博愛は、明治23年(1890年)8月19日、父・雑賀義敬、母・千代の長男として、福岡県御井郡小郡村(現在の小郡市)の巡査駐在所で生まれました。雑賀家は福岡藩の武士で、禄高は150石。しかし、幕藩体制の崩壊で武士になれなかった義敬は、明治9年、小学校二等授業生(代用教員)となり、同12年には四等巡査になります。そして朝倉郡宮野村(現在の朝倉市)の駐在所に勤務していた明治33年、村民の熱望に応え巡査を退職し、宮野村村長に就任しました。
 博愛は明治29年に宮野尋常小学校へ入学し、同33年に比良松高等小学校へ進学。しかし明治35年、父・義敬が村長を退任し、福岡市へ転居しました。これに従い、博愛も福岡高等小学校に編入学し、明治37年3月、同校を卒業しました。

●福本日南との出会い

 父・義敬と継母のハツ(生母・千代は明治25年に病没)は年金生活となり、博愛は姉と弟妹の行末を一身に担う立場になりました。
 職探しに奔走していた明治38年のある日、耳寄りな噂が聞こえてきました。「東京の新聞『日本』に評判の政治評論を書いた福本日南が、九州日報の社長に座った」 とのこと。日南も福岡藩士の子孫で、学識と人格は福岡の誇りとの評判を知り、博愛は決意して九州日報の門を叩きました。
 一途な面持ちで信念を語る少年を微笑ましく思った日南は「よし、私の側で頑張ってみなさい」と見習い入社を許しました。日南は博愛の気骨を愛し厳格に指導し、明治42年には社員に登用、編集局員に任じ、記事も書かせました。日南は同年12月、経営上の対立から九州日報を退社し、博愛ら十数名も同盟退社しました。明治43年6月、東京に去った日南の後を追って、博愛も上京をはたしました。

●政教社へ入社

 日南は博愛を世に出したいと萬朝報、毎日電報、大阪朝日等の大新聞に入社の労をとります。しかし日南の出す条件が「安売りはしない」であったので、なかなか就職できません。大正5年、日南の推薦でようやく政教社入社が決まり、雑誌『日本及び日本人』の記者になりました。
 大正7年、越後十日町(現在の新潟県十日町市)出身の根津久子と結婚し穏やかな日々が続きましたが、同10年9月、日南が逝去。博愛は悲嘆にくれながらも、恩師・日南の一面であった史論家の道を進もうと決意しました。
 大正12年9月、関東大震災が発生し、政教社の社屋も焼失します。雑誌『日本及び日本人』は休刊し、再建が図られました。大正13年1月に再発足し、誌名は『月刊日本及び日本人』に変わり、博愛の立場も重くなりました。

●西郷隆盛の研究

 博愛が九州日報に勤務していたころ、社長室へ自由に出入りする男がいました。政治結社・玄洋社の頭山満です。頭山は西郷隆盛の信奉者で、折に触れ博愛に、西郷逸話を語ってくれました。日南もまた、明治維新前後の歴史研究(維新史)を奨めていました。
 大震災後の大正14年、博愛は『大西郷遺訓(頭山立雲講評)雑賀博愛筆記』を出版し、頭山の恩顧に報いました。また、日南に誓った維新史の研究は、西郷隆盛の伝記を完成することで果たせると考え、大正7年に着手し、昭和12年まで20年の歳月をかけて『大西郷全傳』六巻にまとめ上げました(五巻までの総頁数は2858頁。六巻は東京大空襲で原稿が焼失)。

●母恋し、展墓の歌

 昭和7年2月、父・義敬が重体との報を受け、急ぎ帰郷した博愛に、義敬は「生みの親・千代の墓は、立石村(現在の朝倉市)の堤にある」と告げました。生母といえば、頬摺りの記憶だけでした。同年3月、満州・朝鮮を旅し、釜山から親友の吉岡重實を同伴した博愛は、立石村堤に千代の墓を探しましたが、見つかりません。「尋ね来し御墓はなくて夕風のさびしき丘を我が下りゆく」
 昭和8年1月、父・義敬が逝去しました。翌年1月、再度、吉岡の助けを受け、ようやく立石村の堤が丘に生母の墓を発見しました。「目の当り母に相見し心地して悲し御墓の石抱きけり」。生母への追慕の思いは、歌集『慕親帖』に収められています。

●死後慕われる人

 佐賀市龍泰寺の佐々木雄堂住職は、西郷隆盛に心酔し、自坊に「西郷塾」を開いて、青少年の指導に当たりました。住職は博愛とも懇意で、夏と冬の一夜、博愛を招き特別講座を開きました。
 昭和13年冬の講座で、博愛は西郷の言葉を引用し「偉い人とは大臣大将の地位ではない。財産の有無でもない。立身出世でもない。後ろから拝まれる人、死後慕われる人」と話しました。末席で聴講していた佐賀県警察部長・島田叡は、散会後、住職と博愛にあいさつし「官吏として反省するばかりです。真の自己完成に励みます」と語りました。
 このことは、島田のその後の生き方に大きな影響を及ぼしました。昭和20年1月、当時大阪府内務部長であった島田は、沖縄県知事就任の打診を受けその場で受諾します。
 米軍上陸直前の沖縄県に着任した島田は、まず幼い子どもや女性を緊急避難させ、食糧確保のため台湾から米を運び込み、島の南部に住民を避難誘導の途中、殉職したといいます。昭和26年6月、沖縄全県民は、島田を始め戦没県職員を合祀する「島守の塔」を摩文仁の丘に立て、哀悼の祈りを捧げました。

●若者に希望を託す

 政教社は国粋主義を掲げていました。過度な欧化主義をいさめ、日本が培ってきた伝統や美徳を重んずる思想です。軍国主義が台頭すると政教社も変容し、時局に迎合しました。博愛は苦悩の末、昭和10年7月に退社します。
 その後、維新史や短歌の作法を講義してきた「金鶏学院」や「日本農士学校」に学ぶ若者との交流を密にします。金鶏学院からは若き官吏が、日本農士学校からは、農村の青年指導者が巣立っていきました。農士学校卒業生を送る、と題した一首。「学び舎を今日立ち出づる若き子が衣の裾に春の風吹く」

●中野正剛を悼む

 博愛は51歳で肺浸潤を患いました。小康を維持しながら農村を巡り教え子と語らい、講演をこなし、その間『勤皇志士叢書』四編を著しました。
 昭和18年10月下旬、博愛のもとに、政教社の旧友で国会議員の中野正剛が、自宅で割腹自殺を遂げ、机上に『大西郷全傳第二巻』が開かれていたという、極秘の知らせがありました。中野の自殺は、独裁色を強め戦争を推進する東條内閣に反発したため、窮地に立ったものといわれています。「死を前にして、友人は私の書のどこを読み、心を静めてくれたのだろうか…」。哀惜の涙は止めどなく、博愛の頬をつたいました。 

●終戦前後の暮らし

 ミッドウェー海戦以降、日本軍の戦況は悪化し物資の欠乏は国民生活を直撃しました。東京暮らしの厳しさを察知した農士学校の教え子たちは、博愛に米、卵、炭等を密かに送ってくれました。「みちのくの雪の中より送りきし鶏のま卵うづの白玉」
 昭和19年8月、五女・清香が学童疎開。同年9月、博愛は体調が悪化し、残りの家族を連れて長野県北佐久郡中津村(現在の長野県佐久市)に疎開しました。小泉貞一ら友人たちの支援を受け、終戦を迎えます。この間、長女・沼香と二女・若葉が結婚し、親の役目を果たしました。昭和20年12月、博愛と家族は信州の人々に見送られ、帰京しました。追って長男・千尋も復員し、家族(夫婦と二男六女)の無事に安堵した博愛でしたが、病状が進み昭和21年7月24日逝去。56歳の惜しまれる生涯でした。

●博愛の著作と信念

 博愛は健筆家で、膨大な量の著作があります。本稿で紹介した作品以外の代表作として『大人格の偉観・西郷南洲翁』『大江天也傳記』『天下の人物』『風雲と人物』『雑賀鹿野歌集』等があります。
 博愛の信念は、『西郷全傳第一巻』の序に述べられています。「大西郷の一生は、誠の一字に帰する。(中略)人は誠にあらざれば動かず、誠は、偽らざる人間至情の発露に外ならぬ」。この言葉のように、博愛もまた「誠」の人でありました。
※本稿に収録した短歌はすべて、雑賀博愛の作品。鹿野は博愛の筆名。

【参考文献】

・鹿野翁をしのぶ(私家本)
・雑賀鹿野歌集(全国師友協会)
・田村洋三「沖縄の島守」(中央公論社)
・石瀧豊美「『大西郷全傳』の著者雑賀博愛について」(県史だより113号所収)

(広報あさくら平成23年4月1日号掲載)

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