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秋月の歴史

登録日:2023年06月13日

秋 月

秋月の名が初めて史料に現れるのは、正暦3年(992)の大宰府符であり、秋月庄として筥崎宮塔院領の荘園となっていました。また一方では、秋月の背後にそびえる霊峰古処山が、英彦山修験の道場として開けていき、その後、鎌倉時代の初め、建仁3年(1203)には、原田種雄が鎌倉幕府から秋月庄を賜り、種雄は秋月氏と名乗ります。以後、秋月氏は古処山城を本拠にこの地を支配し、中世から戦国にかけて数々の戦乱を生き残り、天正期には筑前・豊前3郡のうち11郡を領することとなります。

秋 月 氏

天正15年(1587)秋月種実は、豊臣秀吉の九州征伐で敗れ、日向財部(宮崎県高鍋町)に移封されます。その後、秋月を含む筑前は小早川秀秋の支配地となりますが、慶長5年(1600)、関ケ原の戦いの恩賞として黒田長政が筑前国に封じられると、叔父の黒田直之に秋月を含む知行地12,000石が与えられます。直之は秋月に入り、秋月氏の里城であった杉本城を修復して城館としました。彼はまた熱心なキリシタンであり、慶長12年(1607)には天主堂が建立され、信者は2,000余名にも及んだといわれています。

秋 月 藩

元和9年(1623)長政の三男長興が、2代福岡藩主となった兄忠之から夜須・下座・嘉麻3郡のうち5万石を分与されて秋月藩が成立します。この秋月藩は福岡藩の支藩ではあったが、江戸幕府から直接朱印状が交付された独立藩であり、江戸後期以降は財政的な援助に伴う政治的な介入を受けつつも、本藩に対し独自性を有していました。秋月は明治維新に至るまで、この秋月藩12代の城下町として栄えます。

現代へ

江戸時代には秋月千軒と言われるほどの賑わいであった秋月城下町は、廃藩置県により秋月県となるものの、わずか4ケ月後には福岡県に合併され政治的な求心力を失います。さらに明治9年(1876)に今村百八郎ら秋月党が挙兵した秋月の乱は、城下町としての機能の終焉となるのです。

明治22年(1889)町村制の施行により秋月村となり、同26年(1893)には秋月町となりますが、人口の流出は続き、同31年(1898)の人口は明治初年の66%までに減少します。

今日に伝わる城下町の原型は、寛永元年(1624)黒田長興が入封した際に行った町割りを契機として形成されたものです。

秋月の町並み

城下は中央を西流する野鳥川によって南北に大略二分されます。北側には町地、南側には藩主の居館である秋月城を始めとする上級家臣団の屋敷が、周囲の山裾には寺社や下級家臣団の屋敷がありました。町割りは、中央の「札の辻」で交わる二本の道筋を基軸とし、城下の出入口には枡形を設けて番所を置き、武家地と町地も枡形で区画されていました。江戸中期以降になると、人口の増加に伴い枡形の外にも町地が拡大し、秋月は経済的には在郷一の賑わいを見せた本藩領甘木の影響下に置かれましたが、元結・寿泉苔・葛粉等の特産品により、「甘木千軒・秋月千軒」と謳われ甘木と並ぶ繁栄を見せました。そして、町地の入口には、長崎から石工を招いて文化7年(1810)目鏡橋が架けられました。

 廃藩によって政治的中心地としての機能を失うとともに、秋月では士族の急激な流出が始まり、多くの武家屋敷は田地に転じました。藩政期には幾度となく焼失した町地は、明治期以降は火災を被ることなく、多様な建築形式を呈する新たな町並みを形成しましたが、政治的求心力によって支えられていた経済的活力は次第に失われ、その結果、町割りや屋敷割り、道路網と水路網などの基本的な構造、城館跡、武家屋敷、町割りなどの城下町の構成要素が今日に伝えられるとともに、周囲の豊かな自然景観とが相まって城下町らしい歴史的風致を今なお伝えています。

 

 

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