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朝倉市秋月博物館【歴史コラム】

更新日:2021年03月29日

 

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歴史コラム

 

天然痘予防の始祖 緒方春朔
 
 

 

天然痘予防の始祖 緒方春朔

 

天然痘予防の始祖 緒方(おがた) 春朔(しゅんさく)

寛延元年(1748)~文化7年(1810)

 

寛延元年(1748)、久留米藩士小田村甚吾(おだむらじんご)の次男として久留米に生まれる。その後、久留米の医師緒方元斎(おがたげんさい)の女婿となり、緒方春朔と名乗る。

緒方家を継いだ春朔は、医業を受け継ぐため長崎へ遊学し吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)から蘭医学を学ぶ。久留米へ帰郷したのち、天明3~4年(1783~1784)頃に秋月へ移住すると、寛政元年(1789)には8代秋月藩主黒田長舒(くろだながのぶ)から医学や天文学等における知識を認められ、10人扶持の藩医となる。

寛政元年、秋月藩内で天然痘が大流行する。翌寛政2年(1790)春朔の良き理解者であった上秋月村の大庄屋天野甚左衛門(あまのじんざえもん)の協力を得て、その幼い子ども2人に日本で初めて人痘種痘法を成功させる。世界的に有名なエドワード・ジェンナーの牛痘種痘法の成功より6年前のことで、日本で牛痘法が普及するまでの約60年間、天然痘予防で大いに貢献した。

春朔は人痘種痘法を広く普及させるため、寛政5年(1793)に『種痘必順辯(しゅとうひつじゅんべん)』(種痘の解説書)を著し、寛政7年(1795)江戸で出版する。また、寛政8年(1796)には『種痘緊轄(しゅとうきんかつ)』、『種痘證治録(しゅとうとうちろく)』等の種痘書を著わしている。

文化7年(1810)63才で没するまでの間、施術した数は千人を越え、この種痘法を全国の医師約100人に伝授している。また「種痘伝法之誓約(しゅとうでんぽうのせいやく)」では各藩の藩医21名が門人となっている。

 緒方春朔

緒方春朔

 

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