朝倉市秋月郷土館【歴史コラム】

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秋月歴史コラム

 当館学芸員による秋月藩ゆかりの人物等を題材とした短編の歴史コラムです。

  【1】 黒田長興(くろだ ながおき) <第1回/全3回>
  【2】 黒田長興(くろだ ながおき) <第2回/全3回>
  【3】 黒田長興(くろだ ながおき) <第3回/全3回>
  【4】 土岐コレクション(とき これくしょん) <第1回/全1回>new

【1】 黒田長興(くろだ ながおき) <第1回/全3回>

黒田長興  
写真1-1 黒田 長興 [くろだ ながおき]
(1610~1665年)

写真:島原陣図屏風(秋月郷土館所蔵)より
 
 

◎はじめに

 朝倉市秋月は、江戸時代には秋月黒田藩の中心地でした。秋月藩は、黒田家52万石の福岡藩から分知した支藩です。 元和9年(1623年)に成立し、明治2年(1869年)に版籍奉還されるまでの247年間存続しました。 この秋月藩の初代藩主が『黒田長興』です。
 黒田長興の藩政は、とても内容の濃いものであるため、3回に分けて紹介します。今回は、秋月藩誕生とその苦労についてです。

 

◎黒田長興とは

 黒田長興は、福岡藩初代藩主・黒田長政の三男です。慶長15年(1610年)3月16日、福岡城内で生まれました。 母は徳川家康の養女(保科正直の娘)で永子といいます。 長興は犬万という幼名でした。 元和9年(1623年)13歳のとき、祖父・黒田官兵衛(如水)の名をもらい勘解由と改め、諱(いみな)を孝政と称しました。 その後、長興と改めたのは23歳の時です。

 

◎秋月藩誕生

 長興の父・長政は、長男・忠之の素行を不安視していたことから、長興(三男)・隆政(四男)に領地を分知するように遺言していました。この遺言に基づき、元和9年(1623年)8月、長興は福岡藩を継いだ兄・忠之から、秋月5万石の分知目録および家臣の名簿をもらいました。
 長興は寛永元年(1624年)7月、秋月に入り、梅園(現在の秋月中学校)にあった古い屋敷(官兵衛の弟・図書助直之が以前住んでいた館)を増改築し、居城としました。それから秋月では城下町の建設が進み、新しい家来の雇い入れが行われ、藩の行政組織や藩士の役割編成が行われました。

堀平右衛門  

写真1-2 堀 平右衛門 [ほり へいえもん]
(?~1636年)

写真:黒田二十五騎図(秋月郷土館所蔵)より

 
 

◎長興の苦労

 長興と、その家老の堀平右衛門たちが秋月藩の基礎固めをしていた時に、福岡本藩から長興の江戸参府を禁止する命令が届きました。 秋月藩が公認されるには、江戸に出て将軍に拝謁し、所領安堵の御朱印を拝領することが必要です。 しかし忠之は、長興を家来として処遇し、秋月の5万石は福岡藩領内の一部としようと考えました。そのため江戸参府を禁止したのです。
 長興は、この命令を拒絶しました。 しかし、再び忠之から江戸参府禁止の命令が届きます。この時、懐柔策として知行10万石を提示されました。

 長興はこの命令をも拒否して江戸参府を強行します。 わずか13人の従者で密かに秋月を出で立ち、福岡藩の監視の目をかすめて、闇夜に小さな漁師船で関門海峡を渡り、無事に江戸に到着しました。
 寛永3年(1626年)正月、長興は3代将軍徳川家光と前将軍秀忠への拝謁が許され、同年8月には朝廷から甲斐守に任命され、大名として公認されました。
 このあと長興は、江戸に滞在して将軍家への忠勤に励み、ようやく寛永11年(1634年)に秋月領5万石の朱印状を賜ることができました。

 長興が江戸で忠勤に励んでいた頃、秋月藩の基礎固めの中心であった堀平右衛門の依怙贔屓が目立つようになり、家臣の中に不満の声が出てきました。
 このことで長興から厳しく叱責された堀平右衛門は、寛永5年(1628年)秋月藩を退去しました。同時に堀一派の十数人も集団で脱藩し、藩内に大きな動揺が起りました。
 長興は19歳の若年ながらこの混乱を収拾し、藩政の基礎を固めていきました。

 

◎おわりに

 秋月藩は黒田長興を藩祖とし、247年間安泰を保ちます。
 その始まりを今回は紹介しました。長興の治世はまだまだ始まったばかりです。
 次回は秋月藩政時代唯一の合戦経験である『島原の乱』について紹介します。

【2】 黒田長興(くろだ ながおき) <第2回/全3回>

 

◎はじめに

 黒田長興は秋月藩の初代藩主です。 前回、長興の生い立ちや秋月藩誕生について、またその苦労などを紹介しました。
 今回は、長興が鎮圧のために出陣した島原の乱について紹介します。

島原へ出陣する黒田長興  

写真2-1 島原へ出陣する黒田長興
写真:島原陣図屏風(秋月郷土館所蔵)より

 
 

◎島原の乱とは

 寛永14年(1637年)10月、島原の乱が起りました。 島原藩のある肥前島原半島と唐津藩の飛地である肥後天草半島の領民達が、その領主の過酷な重税とキリシタン弾圧に抵抗し天草四郎を総大将にして、3万人余りが島原半島南部にある原城に立て籠もり反乱を起こしたのです。
 この乱の鎮圧に、幕府は九州の諸大名に号令して12万人もの大軍を動員しました。 結果、幕府軍はこの乱を鎮圧し、原城に立て籠もった一揆軍はそのほとんどが殺害されることとなりました。
 この島原の乱は、日本の歴史上最も大規模な一揆といわれています。

 

◎長興、島原の乱に出陣

 寛永15年(1638年)1月、幕府の命令を受けた長興は約2,000人の兵を率いて島原に出陣しました。 2月21日~2月22日、長興は陣地で夜襲に遭いましたが、賊徒を生け捕り、反乱軍は餓死寸前という情報を手に入れます。 そのことを軍議で報告し、諸大名も攻城を主張したため、総攻撃を決行することになりました。 2月28日の総攻撃の際には秋月勢も奮戦し、幕府軍は鎮圧することができたのです。
 この乱において秋月藩は戦死者35人、負傷者345人を出しました。 長興は秋月に帰陣後、戦死者の葬儀を行い、遺族や負傷者への見舞いを懇切丁寧にしました。 また、出陣した者には、働きに応じて適切な褒賞が与えられました。 この時、戦勝祈願をした田中天満宮は、戦功を祝して島原に向けて社殿が建て替えられたといわれています。

島原陣図屏風
写真2-2 秋月郷土館に展示されている島原陣図屏風
(左:出陣図 右:戦闘図)
原城にて指揮を執る黒田長興  
写真2-3 原城で指揮を執る黒田長興
写真:島原陣図屏風(秋月郷土館所蔵)より
 
 

◎島原陣図屏風

 秋月郷土館には、『島原陣図屏風』と呼ばれる一双の屏風が展示されています。 歴史の教科書などで、皆さんも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。 これは、藩祖・黒田長興の島原凱旋200年を記念する事業の1つとして、第10代藩主・黒田長元(ながもと)が臣下に命じて作製させたものです。 天保元年(1830年)からその計画が進められ、天保8年(1837年)に至り、足かけ8年を要して完成したものであるといわれています。
 一双の屏風のうち「出陣図」は木付要人(きつき かなと)の筆、「戦闘図」は斎藤秋圃(さいとう しゅうほ)の筆であるといわれています。 木付要人、斎藤秋圃はともに秋月藩のお抱え絵師でした。

 「出陣図」には、秋月城跡に現存している瓦坂や、律管の兜を装着している黒田長興、秋月藩勢の先頭を行く筆頭家老・宮崎織部(みやざき おりべ)の姿などが描かれています。
 「戦闘図」には、縄で後ろ手に縛られている兵の姿や、腹を突き刺された兵の姿など、生々しい状況が描かれています。 また、幕府からの矢文を受け取って寝返りしようとした一揆軍の絵師が、裏切り者として一揆勢により捕らえられ、縄で縛られ板塀の外に監禁されている姿も描かれています。 他にも、石垣をよじ登る黒田勢や、投石する一揆勢とともに応戦する老婆など、どちらも必死な様子が描かれています。小さいお子様には刺激が強すぎるかもしれません。

 『島原陣図屏風』は秋月郷土館に常設されていますので、これらの姿を探してみてください。必ず見つかります。

 

◎おわりに

 この島原の乱出陣は、秋月藩政247年の中で唯一の合戦経験です。 そのため、コラムとして1回分を使って紹介しました。
 また、長興が行った事業はたくさんあります。 次回は長興の内政について紹介したいと思います。

【3】 黒田長興(くろだ ながおき) <第3回/全3回>

女男石付近の航空写真

写真3-1 女男石付近の航空写真
写真:朝倉市教育委員会

 

◎はじめに

 黒田長興は、秋月藩初代藩主です。秋月藩誕生やその苦労、島原の乱出陣については、これまでに紹介してきました。
 今回は、長興の領内統治について紹介します。

 

◎長興の内政

 秋月藩5万石の所領は、夜須郡、下座郡、嘉麻郡の3郡内の55カ村です。 これらの土地は山間地が多く含まれていて農業生産力が低く、商業の盛んな甘木町は秋月領から外されていたので、藩の財政は当初から多くの困難を抱えていました。 しかも、前回紹介した島原の乱に出陣しなければならなかったので、莫大な軍事費も重なってしまったのです。 しかし長興は、藩財政を支える農民に対して無理な年貢や労役を課さないように家老たちを戒めました。 長興自身も質素倹約を率先するとともに、武芸や学問に励んだといわれています。

 

◎長興の事業

 秋月藩の財政難には別の理由もありました。 それは、現在でいう公共事業です。 秋月には様々な問題があり、それを長興が解決していく度にさらに財政は苦しくなったのですが、人々の生活は良くなっていきました。

ツゲ

写真3-2 古処山のツゲ
写真:朝倉市教育委員会

  【女男石の護岸工事】 小石原川と野鳥川が合流している所はとても狭く、しかも湾曲しているので流水の勢いがとても強く、水害が頻発していました。長興はこの水害を除くために、堀平右衛門(秋月藩家老)に護岸工事を命じました。工事の内容としては、石垣で丈夫な二重の(三重ともいわれる)護岸を施し、激流の中には直径6メートル余りの巨岩を2つ投じ、その付近に数十個の大石を投入するというものでした。この2つの巨岩を女男石(めおといし)とよび、地名にもなったといわれています。(写真3-1参照)  
  【植林育成】 島原の乱の軍功賞として、長興から従軍の藩士たちがそれぞれに「下山」とよばれる山林地を下賜され、これに杉や檜を植えたのが、大々的に行われた植林の始まりといわれています。これらの樹木は順調に成育・繁茂して藩内の至る所で美しい林となりました。そして歴代藩主が藩祖の遺志を継いで、愛林事業を心掛けていきました。なお、古処山の山頂にはツゲの原始林がありますが、これは禁伐林として藩の保護のもとに永く愛育されたため、現在までに生い茂ったものです。このツゲの原始林は昭和2年(1927)4月、国指定特別天然記念物に指定されました。(写真3-2参照)  
  【原地蔵の新田開発】 原地蔵(筑前町)という場所は、原野として放置されていました。長興は島原の乱から帰陣後の戦後処理が一通り終わると、命令を下して原地蔵の調査を進め、開墾させました。栽培できる田畑を得たことで、少なからず財政立て直しの助けとなりました。秋月藩は財政難であったため、藩の収入を増加させる新田開発事業は大いに奨励されました。  
新八丁越え

写真3-3 新八丁越
峠付近にある駕籠立て場が見える

写真:朝倉市教育委員会

  【野町駅の創設】 秋月から松崎までは12km以上あり、その間に宿駅がありませんでした。その途中に野町という地域があります。野町は野原で、人は住んでいませんでした。そこで長興は寛永14年(1637)宿駅建設を命じ、野町駅が立てられました。翌15年には長興がこの宿場でしばらく休息をとったといわれています。  
  【新八丁越の開削】 秋月城下から八丁峠を越えて千手(嘉麻市)に出る道は大変険しいです。また、城下町を縦断し、藩主の館近くを通っているため、長興は防衛上好ましくないと判断しました。寛永7年(1630)、長興は新しい峠道を開かせました。これを新八丁越とよび、従来の道は旧八丁越というようになりました。この新八丁越付近には、参勤交代の際に藩主の乗る駕籠を置いた場所があります。(写真3-3参照)  
 

 長興は古心寺や大凉寺などの菩提寺建立も行っていますが、長くなりそうなので、非常に残念ではありますが別の機会に紹介することにします。

 

◎おわりに

 長興は、寛文5年(1665)3月、江戸の藩邸で亡くなりました。享年56歳、藩主在位42年でした。
 遺髪が古心寺に葬られました。死後200年経った安政6年(1859)に垂裕明神の神号を贈られて、今も垂裕神社に祀られています。

【4】 土岐コレクション(とき これくしょん) <第1回/全1回>

土岐勝人像(レリーフ)  
写真4-1  土岐勝人像(レリーフ)
写真:土岐コレクション(朝倉市秋月郷土館蔵)より
 
 

◎はじめに

 秋月郷土館内の一施設に郷土美術館があり、ここでは黒田家遺品のほかに『土岐コレクション』といわれる美術品が数多く展示されています。
 今回はこの『土岐コレクション』について紹介します。

 

◎土岐勝人氏

 土岐勝人(とき かつと)氏は明治39年(1906)、福岡県夜須郡長谷山村(現 朝倉市秋月)に生まれました。旧制中学を経て上京し日本大学医学科を卒業後、満鉄病院に外科医員として勤務しました。終戦後にシベリアにて抑留されましたが、約2年後に帰国し横浜にて医院を開業しました。
 満州では、クラシック音楽・レコード収集・謡曲などに熱中しました。シベリアの収容所では、ホトトギス派の俳人らと俳句を始めたようです。帰国後は、短歌に転じ、歌集『市井医の歌』や句文集『忍従の丘』などを出版しています。
 また、医業の傍らで東京横浜方面の博物館・美術館はもとより、様々な展覧会などに足を運び、美術品の収集に勤しみました。そのコレクションの範囲は広く、日本画・洋画・彫刻・版画・その他の美術品と多岐にわたっています。

 

◎収集品を秋月郷土館へ寄贈、その思い…

 土岐氏はこれら約250点もの収集品を昭和50年(1975)、当時の財団法人秋月郷土館へ寄贈されました。
 秋月は土岐氏の家系が350年住みついた郷土であり、これに少しでも報いることができればという考えがあったようです。
 また、土岐氏の幼いころは第一級の美術品に出会うことがなかったため、郷里の子どもたちには早くから素晴らしい美術品に触れて、自由で闊達な精神を養ってほしいという思いもあったようです。
 そして、大都会に出なければ見る機会の少ない地方の人々に身近なところで有名な作品を鑑賞してもらい、そこから何らかの心の糧を得ていただけるように寄贈したものと思われます。

土岐コレクションの絵画類
写真4-2 郷土館美術館に展示されている土岐コレクションの絵画類
写真:朝倉市教育委員会
湯浴する女(ルノワール)  
写真4-3 湯浴する女(ルノワール)
写真:土岐コレクション(朝倉市秋月郷土館蔵)より
 
 

◎土岐コレクション

 寄贈された作品集は現在、秋月郷土館内にある郷土美術館において『土岐コレクション』として展示しております。
 横山大観の「霊峰不二」やルノワールの「湯浴する女」など国内外の有名な画家の絵画、西郷吉之助や夏目漱石の書簡、高浜虚子や正岡子規の俳句や短歌など、様々なものを展示しておりますので、時間をかけてゆっくりと鑑賞していただけたら幸いです。
 なお、これらの作品は展示替え等により、展示されていない場合もございますので、あらかじめご了承ください。

 

◎おわりに

 今回紹介した『土岐コレクション』は、黒田家遺品とあわせて秋月郷土館の展示品の基幹となっているものです。
 1つ1つの作品の詳細につきましては、また別の機会に紹介したいと考えております。

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電話番号 : 0946-25-0405
ファックス番号 : 0946-25-0405
メールアドレス : aki-kyodo@city.asakura.lg.jp
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