本文
須賀神社の社倉「由緒碑文」
(原文)
艱穡積塵倉記
稼穡耕農ハ天下之本而、聖人亦以艱難とす。年之豊凶天ニ在てハ、人ハ唯無逸を以て要とす。がい聞、此郷之民、逐ㇾ年而衰荒ニ就、見而乃富者、相謀而是人を賑すと雖も、然ハ究乏
愈甚亘上、之仁惠を蒙り、忽ち穌活所思を成志得而、恩澤を奉さる者成志。茲ニ文政五年の冬、相謀云。
今より後、各々身口日用一粒一銭を徐て積塵の功を以、或凶年の饑厄ニ備へ、或究乏の廃業を助、或無頼の病苦を救ハゝ、豈國家大恩豪末を酬ひ奉ニ非や。乃此の清を以、嚴命
を伺奉ニ果つ。以竒獨の事、以稱嘆すべく一倉を構へ玉ハリ志も亦言を神明に欺ら志めざるの意なり。毎歳聚ル所の米穀ハ此中ニ貯ヘ、其積財ハ官府ニ命セ被て嚴制なり。散施收藏の時ハ諸長相聚り、法ニ依て出入を欽メ志むや(也)。因而がいを使而是を書セ志む。がい欽而神明ニ告奉る。伏願ハ其約を志て永年ニ朽さら志め玉へ。詩曰、始め有さる事な志く而終り有少志とハ人情の誠無を誡也。
神意も亦其然さらんや。
惟文政五年壬午五月十九日 前扶桑最初禪窟がい陳衲卒書
筑前國夜須郡甘木郷 大雄山祇園禪寺
(書き下し文)
艱穡積塵倉記(かんしょくせきじんぐらのき)
稼穡耕農(かしょくこうのう)は天下(てんか)の本(もと)にして、聖人(せいじん)亦(ま)た艱難(かんなん)とす。年之豊凶(としのほうきょう)に在(あ)りては、人(ひと)は唯だ無逸(むいつ)を以(もっ)て要(かなめ)とす。がい(がい)は聞(き)く、此(こ)の郷之民(こうりのたみ)、年(とし)を逐(お)って衰荒(すいこう)するに就(つ)き、見(み)ての富者(ふしゃ)は、相謀(あいはか)りて是(こ)れ賑(にぎ)わすと雖(いえど)も、然(しか)らば究乏(きゅうぼう)=注1愈甚(いよいよはなは)だ上(のぼ)するに亘(わた)り、之(こ)れ仁惠(じんけい)を蒙(こうむ)り、忽(たちま)ち穌活(そかつ)の思(おも)う所をなし得(え)て、恩澤(おんたく)を奉(たてまつら)ざる者(もの)なし。茲(ここ)に文政五年の冬、相謀(あいはか)ると云(い)う。
今より後(のち)、各々(おのおの)身口日用(しんくにちよう)の一粒(いちりゅう)一銭(いっせん)を徐(のぞい)て積塵(せきじん)の功(こう)を以(もっ)て、或(あるい)は凶年(きょうねん)の饑厄(きやく)に備(そな)え、或(あるい)は究乏(きゅうぼう)=注2の廃業(はいぎょう)を助(たす)け、或(あるい)は無頼(ぶらい)の病苦(びょうく)を救(すく)わば、豈国家大恩(あにこっかだいおん)の豪末(ごうまつ)を酬(むく)い奉(たてまつ)るに非(あら)ざるや。乃(すなわ)ち此(こ)の清(きよ)きを以(もっ)て、嚴命(げんめい)を伺(うかが)い奉(たてまつ)るに果(は)てつ。以(もっ)て竒獨(きどく)=注3の事(こと)、以(もっ)て稱嘆(しょうたん)すべく一倉(いっそう)を構(かま)え給(たま)わりしも亦(ま)た言(げん)を神明(しんめい)に欺(いつわ)らしめざるの意なり。毎歳(まいさい)聚(あつむ)る所(ところ)の米穀(べいこく)は此(こ)の中(なか)に貯(たくわ)え、其(そ)の積財(せきざい)は官府(かんぷ)に命(めい)ぜられて厳制(げんせい)なり。散施收藏(さんせしゅうぞう)の時(とき)は諸)長相聚(しょちょうあいあつま)り、法(ほう)ニ依(よ)りて出入(しゅつにゅう)を欽(つつし)めしむるなり。
因(ちな)みてがいを使(つか)わして是(これ)を書(か)かせしむ。がい欽(つつし)みて神明(しんめい)に告(つ)げ奉(たてまつ)る。伏願(ふくがん)は其(そ)の約(やく)を志(こころざ)して永年(えいねん)に朽(く)ちざらしめ給(たま)え。
詩に曰く、始め有さる事なくして終り有る少(すくな)しとは人情(にんじょう)の誠(まこと)無(な)きを誡(いまし)むるものなり。
神意(しんい)も亦(ま)た其(そ)れ然(しか)らざらんや。
惟(こ)れ文政(ぶんせい)五年壬午(じんご)五月十九日 前(さき)の扶桑(ふそう)最初(さいしょ)の禪窟がい(ぜんくつがい)陳衲(ちんのう)=注4書(しょ)を卒(お)える
筑前國(ちくぜんのくに)夜須(やすの)郡(こおり)甘木郷(あまぎごう)大雄雄(だいゆうざん)祇園禪寺(ぎおんぜんじ)
(現代語訳)
艱穡積塵倉記(かんしょくせきじんぐらのき)
(不作に備えて積み立てた倉に関する記文)
農業、農家は天下の基本であり、知恵や事理に優れた聖人と呼ばれる者であっても、また悩み、心を痛めるものである。その年どしの豊作や凶作に当たっては、人はただ逃げ去り得ない(逃避できない)ものである。
わたくし仙がいは、この(甘木)郷の民(の生活)が、年を追って減衰荒廃している現状にあって、これを見かねた富裕の者が、お互いに取り計らってこれを活気づけようとしたが、そうするうちに窮乏いよいよ甚だしきに至った。いつくしみや恵みを身に受け、たちまちに蘇生してその思うところとなし得て、感謝の恩沢を恭(うやうや)しく承(うけたまわ)らない者はなかったと耳にした。ここに文政5年(1822年)の冬、相互に謀ったという。
今より後、各々日用の身口(食用)に必要な穀物一粒、銭一枚を供出しては塵を積むような蓄積の功(働き)により、ある時は凶作の年の飢えに備え、ある時は窮乏時の農家を廃業しなくてよいための補助となり、またある時は頼るべきところのない者の病苦を救うことになれば、どうして国家(藩)の大恩にわずかでも報い奉らないことがあろうか。つまりはこの清きことをもって、(藩)の厳格な御沙汰を伺いたてまつる結果となった。
類なく優れた独特なこととして称嘆すべく一倉を構築給わったことも、また神明に対して誠実であるという意味からである。
毎年、集積した米穀はこの中に蓄えておき、その蓄えた財産は藩の役所に復命され、厳格な制度の下に置かれている。施しに当てたり収蔵する時には、それぞれの長(おさ)が相(あい)集まって、法令に基づいて(倉への)出入を控えさせているのである。
(この度)縁あって私(わたくし)仙がいを遣(つか)わしてこの碑文を書かせたものであるが、仙がいは謹んで神明(しんめい)に告(つ)げ奉(たてまつ)った。「その誓約(せいやく)を志(こころざ)して末長く朽(く)ち廃(すた)れることのないようになし給(たま)え」と伏(ふ)して願うものである。詩(経)にある「初めあっても終り有ること少なし」とは人の心の透徹した誠実さがないことを戒めるものである。神意にあってもまた、そうでないことがあろうか(きっとそのようである)。
惟(こ)れ文政五年(1822年)壬午(みずのえうま)五月十九日
前(さき)の扶桑(ふそう)最初(さいしょ)の禪窟がい(ぜんくつがい)陳衲(ちんのう)(仙がい陳衲:陳衲は仙がい和尚の号)書き終える
筑前國(ちくぜんのくに)夜須郡(やすのこおり)甘木郷(あまぎごう) 大雄山(だいゆうざん)祇園禪寺(ぎおんぜんじ)
注 1 究乏
窮乏のこと。貧困を極めるの意。「究」も「窮」も「きわム」と訓じられ、同意として用いられている。現代語としては「窮乏」が一般的である。よって原語に「ママ」を振っている。
2 究乏
上記1に同じ。
3 竒獨
「珍しく、他に例を見ないこの地独特なもの」或は「特有」の意と思料される。
4 がい陳衲
がいは仙がい和尚のこと。陳衲は、仙がい和尚の雅号である。初出は、文政二年(1819年)の年紀の「いろは弁図」とされている。
5 碑文について
当該碑文は刻字内容から文政5年(1822年)建立と判断されるが、既に200年余りが経過しており、碑文全体を見るとコケやカルシュームの析出などで読みづらくなっているが、可能な範囲で読み取ったものであるが、当初一ノ瀬様が読み取られたものと異なった部分は、原文中に赤字で区分した。
6 原文中の句読点は、理解しやすくするため、訳者により付したもの。
7 書き下し文及びふりがなは読みやすくするため、旧仮名遣いでなく、現代仮名遣いとした。
8 原文及び現代語訳中の( )書きは、意味の理解補助のため、解釈者において付したもの。
以上
文責 郷土漢詩文研究家
武田忠信
艱穡積塵倉記
稼穡耕農ハ天下之本而、聖人亦以艱難とす。年之豊凶天ニ在てハ、人ハ唯無逸を以て要とす。がい聞、此郷之民、逐ㇾ年而衰荒ニ就、見而乃富者、相謀而是人を賑すと雖も、然ハ究乏
愈甚亘上、之仁惠を蒙り、忽ち穌活所思を成志得而、恩澤を奉さる者成志。茲ニ文政五年の冬、相謀云。
今より後、各々身口日用一粒一銭を徐て積塵の功を以、或凶年の饑厄ニ備へ、或究乏の廃業を助、或無頼の病苦を救ハゝ、豈國家大恩豪末を酬ひ奉ニ非や。乃此の清を以、嚴命
を伺奉ニ果つ。以竒獨の事、以稱嘆すべく一倉を構へ玉ハリ志も亦言を神明に欺ら志めざるの意なり。毎歳聚ル所の米穀ハ此中ニ貯ヘ、其積財ハ官府ニ命セ被て嚴制なり。散施收藏の時ハ諸長相聚り、法ニ依て出入を欽メ志むや(也)。因而がいを使而是を書セ志む。がい欽而神明ニ告奉る。伏願ハ其約を志て永年ニ朽さら志め玉へ。詩曰、始め有さる事な志く而終り有少志とハ人情の誠無を誡也。
神意も亦其然さらんや。
惟文政五年壬午五月十九日 前扶桑最初禪窟がい陳衲卒書
筑前國夜須郡甘木郷 大雄山祇園禪寺
(書き下し文)
艱穡積塵倉記(かんしょくせきじんぐらのき)
稼穡耕農(かしょくこうのう)は天下(てんか)の本(もと)にして、聖人(せいじん)亦(ま)た艱難(かんなん)とす。年之豊凶(としのほうきょう)に在(あ)りては、人(ひと)は唯だ無逸(むいつ)を以(もっ)て要(かなめ)とす。がい(がい)は聞(き)く、此(こ)の郷之民(こうりのたみ)、年(とし)を逐(お)って衰荒(すいこう)するに就(つ)き、見(み)ての富者(ふしゃ)は、相謀(あいはか)りて是(こ)れ賑(にぎ)わすと雖(いえど)も、然(しか)らば究乏(きゅうぼう)=注1愈甚(いよいよはなは)だ上(のぼ)するに亘(わた)り、之(こ)れ仁惠(じんけい)を蒙(こうむ)り、忽(たちま)ち穌活(そかつ)の思(おも)う所をなし得(え)て、恩澤(おんたく)を奉(たてまつら)ざる者(もの)なし。茲(ここ)に文政五年の冬、相謀(あいはか)ると云(い)う。
今より後(のち)、各々(おのおの)身口日用(しんくにちよう)の一粒(いちりゅう)一銭(いっせん)を徐(のぞい)て積塵(せきじん)の功(こう)を以(もっ)て、或(あるい)は凶年(きょうねん)の饑厄(きやく)に備(そな)え、或(あるい)は究乏(きゅうぼう)=注2の廃業(はいぎょう)を助(たす)け、或(あるい)は無頼(ぶらい)の病苦(びょうく)を救(すく)わば、豈国家大恩(あにこっかだいおん)の豪末(ごうまつ)を酬(むく)い奉(たてまつ)るに非(あら)ざるや。乃(すなわ)ち此(こ)の清(きよ)きを以(もっ)て、嚴命(げんめい)を伺(うかが)い奉(たてまつ)るに果(は)てつ。以(もっ)て竒獨(きどく)=注3の事(こと)、以(もっ)て稱嘆(しょうたん)すべく一倉(いっそう)を構(かま)え給(たま)わりしも亦(ま)た言(げん)を神明(しんめい)に欺(いつわ)らしめざるの意なり。毎歳(まいさい)聚(あつむ)る所(ところ)の米穀(べいこく)は此(こ)の中(なか)に貯(たくわ)え、其(そ)の積財(せきざい)は官府(かんぷ)に命(めい)ぜられて厳制(げんせい)なり。散施收藏(さんせしゅうぞう)の時(とき)は諸)長相聚(しょちょうあいあつま)り、法(ほう)ニ依(よ)りて出入(しゅつにゅう)を欽(つつし)めしむるなり。
因(ちな)みてがいを使(つか)わして是(これ)を書(か)かせしむ。がい欽(つつし)みて神明(しんめい)に告(つ)げ奉(たてまつ)る。伏願(ふくがん)は其(そ)の約(やく)を志(こころざ)して永年(えいねん)に朽(く)ちざらしめ給(たま)え。
詩に曰く、始め有さる事なくして終り有る少(すくな)しとは人情(にんじょう)の誠(まこと)無(な)きを誡(いまし)むるものなり。
神意(しんい)も亦(ま)た其(そ)れ然(しか)らざらんや。
惟(こ)れ文政(ぶんせい)五年壬午(じんご)五月十九日 前(さき)の扶桑(ふそう)最初(さいしょ)の禪窟がい(ぜんくつがい)陳衲(ちんのう)=注4書(しょ)を卒(お)える
筑前國(ちくぜんのくに)夜須(やすの)郡(こおり)甘木郷(あまぎごう)大雄雄(だいゆうざん)祇園禪寺(ぎおんぜんじ)
(現代語訳)
艱穡積塵倉記(かんしょくせきじんぐらのき)
(不作に備えて積み立てた倉に関する記文)
農業、農家は天下の基本であり、知恵や事理に優れた聖人と呼ばれる者であっても、また悩み、心を痛めるものである。その年どしの豊作や凶作に当たっては、人はただ逃げ去り得ない(逃避できない)ものである。
わたくし仙がいは、この(甘木)郷の民(の生活)が、年を追って減衰荒廃している現状にあって、これを見かねた富裕の者が、お互いに取り計らってこれを活気づけようとしたが、そうするうちに窮乏いよいよ甚だしきに至った。いつくしみや恵みを身に受け、たちまちに蘇生してその思うところとなし得て、感謝の恩沢を恭(うやうや)しく承(うけたまわ)らない者はなかったと耳にした。ここに文政5年(1822年)の冬、相互に謀ったという。
今より後、各々日用の身口(食用)に必要な穀物一粒、銭一枚を供出しては塵を積むような蓄積の功(働き)により、ある時は凶作の年の飢えに備え、ある時は窮乏時の農家を廃業しなくてよいための補助となり、またある時は頼るべきところのない者の病苦を救うことになれば、どうして国家(藩)の大恩にわずかでも報い奉らないことがあろうか。つまりはこの清きことをもって、(藩)の厳格な御沙汰を伺いたてまつる結果となった。
類なく優れた独特なこととして称嘆すべく一倉を構築給わったことも、また神明に対して誠実であるという意味からである。
毎年、集積した米穀はこの中に蓄えておき、その蓄えた財産は藩の役所に復命され、厳格な制度の下に置かれている。施しに当てたり収蔵する時には、それぞれの長(おさ)が相(あい)集まって、法令に基づいて(倉への)出入を控えさせているのである。
(この度)縁あって私(わたくし)仙がいを遣(つか)わしてこの碑文を書かせたものであるが、仙がいは謹んで神明(しんめい)に告(つ)げ奉(たてまつ)った。「その誓約(せいやく)を志(こころざ)して末長く朽(く)ち廃(すた)れることのないようになし給(たま)え」と伏(ふ)して願うものである。詩(経)にある「初めあっても終り有ること少なし」とは人の心の透徹した誠実さがないことを戒めるものである。神意にあってもまた、そうでないことがあろうか(きっとそのようである)。
惟(こ)れ文政五年(1822年)壬午(みずのえうま)五月十九日
前(さき)の扶桑(ふそう)最初(さいしょ)の禪窟がい(ぜんくつがい)陳衲(ちんのう)(仙がい陳衲:陳衲は仙がい和尚の号)書き終える
筑前國(ちくぜんのくに)夜須郡(やすのこおり)甘木郷(あまぎごう) 大雄山(だいゆうざん)祇園禪寺(ぎおんぜんじ)
注 1 究乏
窮乏のこと。貧困を極めるの意。「究」も「窮」も「きわム」と訓じられ、同意として用いられている。現代語としては「窮乏」が一般的である。よって原語に「ママ」を振っている。
2 究乏
上記1に同じ。
3 竒獨
「珍しく、他に例を見ないこの地独特なもの」或は「特有」の意と思料される。
4 がい陳衲
がいは仙がい和尚のこと。陳衲は、仙がい和尚の雅号である。初出は、文政二年(1819年)の年紀の「いろは弁図」とされている。
5 碑文について
当該碑文は刻字内容から文政5年(1822年)建立と判断されるが、既に200年余りが経過しており、碑文全体を見るとコケやカルシュームの析出などで読みづらくなっているが、可能な範囲で読み取ったものであるが、当初一ノ瀬様が読み取られたものと異なった部分は、原文中に赤字で区分した。
6 原文中の句読点は、理解しやすくするため、訳者により付したもの。
7 書き下し文及びふりがなは読みやすくするため、旧仮名遣いでなく、現代仮名遣いとした。
8 原文及び現代語訳中の( )書きは、意味の理解補助のため、解釈者において付したもの。
以上
文責 郷土漢詩文研究家
武田忠信
仙がい和尚(仙がい義梵)略歴
生年:寛延3年(1750)4月
没年:天保8年(1837)10月7日
寛延3年 1750 井藤甚八の子として美濃国武儀郡武芸で生まれる。
宝暦11年 1761 美濃国清泰寺において、空印円虚の下で得度(出家)を受ける。
臨済宗の僧侶となる。
明和6年 1769 武蔵国久良岐郡永田にある東輝庵の月船禅彗の下で修業する。
月船禅彗に印可(印定許可)与えられる。
天明元年 1781 師である月船禅彗が示寂(死去)したため、東輝庵を辞し、行脚に出る。
天明8年 1788 筑前国博多の聖福寺の盤谷紹適から師資相承を受け、法嗣となる。
聖福寺の住持(住持職)を23年務める
文政5年 1822 筑前国甘木祇園寺(須賀神社)に建てられた備荒庫の由緒碑「艱穡積塵倉記」を揮毫する。
天保3年 1832 庭に「絶筆の碑」を建て断筆宣言。
天保8年 1837 遷化。
天保12年1841 仁考天皇より「普門円通禅師」の諡号を賜る。
生年:寛延3年(1750)4月
没年:天保8年(1837)10月7日
寛延3年 1750 井藤甚八の子として美濃国武儀郡武芸で生まれる。
宝暦11年 1761 美濃国清泰寺において、空印円虚の下で得度(出家)を受ける。
臨済宗の僧侶となる。
明和6年 1769 武蔵国久良岐郡永田にある東輝庵の月船禅彗の下で修業する。
月船禅彗に印可(印定許可)与えられる。
天明元年 1781 師である月船禅彗が示寂(死去)したため、東輝庵を辞し、行脚に出る。
天明8年 1788 筑前国博多の聖福寺の盤谷紹適から師資相承を受け、法嗣となる。
聖福寺の住持(住持職)を23年務める
文政5年 1822 筑前国甘木祇園寺(須賀神社)に建てられた備荒庫の由緒碑「艱穡積塵倉記」を揮毫する。
天保3年 1832 庭に「絶筆の碑」を建て断筆宣言。
天保8年 1837 遷化。
天保12年1841 仁考天皇より「普門円通禅師」の諡号を賜る。






